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好きな自分になってください

By yam1962 On 2013/12/07 · Add Comment
好きな自分になってください しあわせになりたかったら 好きな自分になればいい 女性が好きだったらプレイボーイに お金が好きだったら実業家に 仕事が好きだったらサラリーマンに 家族が好きだったらいいパパに 人が好きだったらいい教師に 真実が好きだったら芸術家に ケンカが好きだったら格闘家に etc 嫌な自分になったのを、人のせいにしないでください。自分の問題として受けとめて、自分を次へ導いてください。険しい道ですが、それが救われる道であり、他に迎合しない貴方へ近づく方法です。ただ、辛い時は誰かが悪いと考えて生き残る事は許されます。そして、冷静になった時にこの事を思い出してください。 しあわせになりたいなら、なりたい自分を誠実に探しながら生きて下さい。 神様もしあわせを与える事なんてできません。一生懸命に、敗れても、あきらめず、なりたい自分に向っていかなければしあわせになんてなれるはずはないのです。 誰もしあわせをめぐんでくれません。 自分が救われたければ、自分で救うしかない。ひとを貶める事なく、なりたい自分になってください。 そして、自分を愛してほしい。そして、誰かを愛してほしい。 そして、人を笑うものになんてならないでください。人を笑うくらいなら、怒る方がまだマシです。 人を笑う資格のある立派な人に出会った事なんて私はいまだかつてありませんし、立派なら人を嘲笑なんてしないものです。 当たり前です。 ゼウスもイエスもブッタも命を笑う事はないのです。人をバカなやつと笑っていいほど、全ては立派ではないのです。 だから、せめて、好きな自分になってください。 そして、自分らしい幸せにたどりついてほしいと願います。 それが叶えば、人々の幸福の助けになるのです。
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兎角に人の世は住みにくい

By yam1962 On 2013/11/29 · Add Comment
色々な人に出会って、もっと私情を殺さねば感じている。そんな状況で、自立的でいるにはクールな自分が必要だと痛感している。もっともっと大人?になるって事が必要なのだろうか? もう一段大人になるには、情を捨てて行くって事になる。だけど、打算的に情を捨て去って行くってことで、世界は矛盾を引き起こしているのではないか?強ければふみたおしていいというように。 一般的に大人になるって、情を殺して他人なんて知ったこっちゃないって感じがあるようだ。正しい、あなたが他者からそうされる覚悟があるなら。自分の不幸を自分のせいと思う覚悟があるなら。イイトコドリはできないのだ。自分の罪は自分にあり、そして、他人の罪なんてひっかぶる必要なんてない。 だけど、そんな人には滅多に会った事がない。自分の罪を人の落ち度や冷たい社会と言い放ち、自分を検証しない。できるだけ公正に。 そして、情を捨てた自覚がなくて、他者には情を要求する。本来は、フィフティーフィフティーのはずなのに、追い込まれると他人には優しさを求める。こんな事ばかりではないのか?そして、多分ずっと昔から。 自分の責任という意味において、魚やトカゲなどにはできている。喰われたら自分の責任という事において。そして、理屈を持たないという公正さにおいて。 私は情を大切にする。情があることが魚やトカゲと違うって事だから。 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」(夏目漱石) どうせ住みにくい世の中だ、情を選ぶ(優先度を最重要に)ことにするのも、何か面白い。 そんな中で、自身の罪を公正に自覚していたい。謙虚過ぎず、我がまま過ぎず。貸し借りはキチンと清算して行きたい。 今は多少の貸しを利子なしで貸しておきたい。今まで、借りばかりだったから。
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【今日の結論】本当の問題点

By yam1962 On 2013/11/03 · Add Comment
僕には、何が悪いかよく見える。 それは、誰が悪いかではない。 何かうまくいかない事がある場合、誰かが行動や発言をし波紋を広げる。 その時に、誰が悪いかではなく、人というシステムや組織としてのまとりとして、何に問題があるのか僕は考え答えを出す。 誰かやグループを悪者にして解決するのは、まだまだ世界は下等であると思わざるをえない(哀)。
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存在論

By yam1962 On 2013/10/06 · Add Comment
0.序論 このブログのテーマである「存在としての1つの答えを探す」というのは、私の幼少期からの疑問であった「何で全ては在るのか」という疑問が発端なのである。 怖い事だが、私の子供時代に感じた疑問だった。全てが存在しないという事で何か不都合はあるのだろうか?と考えてしまったのである。全てとは、宇宙さえないという事で、自分自身その発想に恐怖を感じた。 しかし、過去のブログである人生道場の最初の記述の「肯定とは絶対」に示したように、在るという事実は覆らないという事に至ったのである。当たり前の様だが。 そして、生命とは何かとか、物質と生命の違いは何かとかの根本は、なぜ、今が存在するかという事が大きなテーマと自分は考えたのである。 ならば、存在とはどういう事なのか、それ以後考え続けた。 そして、肯定とは絶対を2006.10に記述して、7年たった今、その形が見えてきた。その結論をここに展開する。 1.無という妄想 無という漠然としたものの妄想は、人間の意識や生命の命が起因している。 このブログの中で、「無なんて誰も見た事がない」という趣旨の記述を何度も用いている。 それは、無といものは観念であり、事実としてどこにも無なんてあり得ないというのが私の結論なのである。 宇宙空間の、星と星の間は真空であり無と定義するのは乱暴である。仮に何も物質やエネルギーやニュートリノみたいなものが無くても、そこには、空間が存在する。 私の考える無とは、空間さえ存在しないという事になる。それが、本当の無と定義している。 よって、存在というものは、どこにも無をも持たないという結論になる。 宇宙とは、人間が把握している空間という意味で、宇宙の外は空間さえないなんておかしな発想は理解に苦しむ。 宇宙はどんどん加速しながら膨張している。宇宙の果ての外が無なら、膨張はできないのではないのだろうか? 宇宙の果ては、無に行ってしまったら消滅するというのが正しいのではなかろうか? 無とは、人間が眠るなどして意識が無くなるという事から発想されたとしか思えないし、何かの死から発想したのだろう。 本当は、形とは、人間が把握する為に、固有を分類して名詞として表現したという事で、例えば、草が枯れたら、その草が滅びたので消滅したように感じたのであって、草は枯れて土や空間にとけ込んで何かに変化したにすぎず、消滅したわけではないのである。 人間の認識の固有(この例では草とい形)が無くなってしまったにすぎない。 2.始まりについて さて、無という妄想では、固有は無くなったのではなく、何かに変化したという物理的な現象を説明した。ならば、次は時間軸で話をしたい。 実は、始まりなんて本当はどこにもないのである。生命は生まれて死を迎えるので、我々人間は、始まりと終わりがあるように思うが、存在がビッグバーンによって、突如出現したなんてナンセンスなのである。 無から始まるなんてありえないのである。全くなにも無いところから偶然に何かが出現するなんてありえないのである。 無から有が発生としたのであるならば、そのトリガー(きっかけ)が必要となる。ならば、その想像を超えるトリガーはどこから発生するのであろうか。ビッグバーンより遥か遠い過去に。 きっかけによって存在が発生したなら、そのきっかけの前には何かが在ったとしか説明がつかない。だから、無というものはどこにも無かったということで、永遠に何かが在ったし、今後も永遠に何かが在るのである。 永遠に何かが存在した中で、この宇宙はできているのである。 結局、永遠に在ったから今があり、無から始まったということはおかしなことなのであり、結局、今があるという事は、永遠に在ったという証なのであり、無はどこにも無かったという事なのである。 ここでも、人間の時間軸の過去と未来の認識の果てを無という観念が支配しているとうことで、分かりにくいかもしれないが、存在は、始まりも終わりもない永遠であることが結論となる。 3.無といものが発生したなら 永遠に存在はあり、始まりも終わりもないと定義した。ならば、そこから1つの答えが見えるのである。それは、存在という全体は何も減らないし、逆にいえば増えないということになるのである。 無がどこかに存在するならば、全体が増えたり減ったりしているはずである。しかい、今があると言う事は、そんな事実がどこにもなかったという事なのである。 だから、今が在るとは、何も無くならない事を示していて、ただ、変化しているという事が実証されている。 実は存在は永久機関なのである。それが存在の秩序なのである。全ての存在は、変化し続けているだけで、一切が、全てのトータルとして消滅も増加もしないのである。 そのトータルが、どのようなトータルかは、私にも分からない。しかし、その合計は、人間の認識する全てを超えている。今、分かるのは、 存在の合計(一定)=大きさ+光度+温度+速度+加速度+重力+磁気+物質+エネルギー+命+空間+時間+意識+思考+・・・・+χ の様な未知なるものを含めた全ての合計と思われる。 現在、地球上でエネルギーを使っている。それは、使う事によって、動力や光や熱またはCO2に変化する。そのエネルギーを人間の為に用いれば、人口が増加する。結局、エネルギーは何かに変化し、また、何かの変化がエネルギーの元になるというように、存在のトータルの循環によって、そのトータルに変化は無いのである。 人間に可能であるかは不明だが、3次元に時間が加わり4次元、そして、上記の式の変数が増えれば増えるほど、次元の軸が増えるのであり、全ての軸が明らかになれば、存在の一定バランス(循環)が証明されるはずなのである。 なぜそう断言しているかであるが、そのトータルに増減があれば、無が訪れるという事になり、そんな事は、今があるのであり得ないのである。なぜかといえば、無から有が生まれないという事は増加が無いという事で、今があるので減少も無かったという事から、有から無も生まれないと証明できるのである。 ここまでくると、無自体が何なのか不明になってくる。一切が無いなんて、結局あり得ないのであり、何かの固有が変化した事を無と感じているのである。なぜ、そのように感じるかと言えば、何に変化しているか不明であると言う事で、無の本性は、不明であると言う事なのである。 4.命は無くなるのだろうか? 命は、確かにその固有的まとまりが死ぬと無くなる。しかし、上記の理屈に当てはめると、無くなるはずがない。他の現象と同じで何かに変化して、存在のトータルとして循環しているのである(物質としての肉体ではなく、空気のような意識や心の事です)。 意識は死を迎えると無くなると人は考えている。しかし、今の自分と違う何かに変化し、また、存在の中に何かの形で出現するように思う。 現代の科学では、我々の意識とは何なのかを解き明かせていない。多分、物質的アプローチで解釈しようとしているからだと思われる。 最近、雑誌ニュートンに、重力(万有引力)の特集があって、ばぜ、そのような引力が発生するのか不明と書かれていた。よくわからないけれど、核エネルギーがどうしてあのようなエネルギーを発生するかも不明だろうし、火が燃える時に、なんで、温度が高くなるか根源的理由も本当は不明なのではなかろうか(解明されているならば不見識をお詫びいたします)?それは、規則性を発見しただけなのである。 本来、根源的な事は不明な事が多い、その最大な疑問が、何で今が在るかということである。1+1=2と数える事を定めたように、根源的事象の規則性を見極めて整理して行けば、全てのトータルの変数の1つが解明されるだろうし、その中に人の意識なども含めていけば、全てのバランス的循環が解明されるように思う。 宇宙のダークエネルギーやダークマターなどの不明な何かも、もしかすると、生命の意識や知能などと関係があるように思えて仕方ない。 このように、存在の合計とは、全てを含めるべきなので、命(意識や心)という変数も、死後何かに変化し循環しているのである。 ※何に変化するかは不明なので、変な気は起こさないでください。 5.トータルが一定を存在とするならば 存在のトータルが減りも増えもしない。そういう結論を述べてきた。ここで、1つの疑問が私には残った。 全てのトータルが一定とするならば、全てが停止していても同じでは無いかと、それならば、全てが停止してただ存在しているって事があるのか?それはどういうことだろうか? 結論は、全てが停止したものは、在ると言わないのである。 何も変化しないものを在ると言っていいのだろうか?それは、違うのだ。在るとは、相対的なものなのである。 何かの物質や素粒子などが、反応しあうので在るというのである。 勝手な定義のように思われるかもしれないが、なぜそう定義するかと言えば、停止したものを在るとすると、何も反応がない停止した世界において、在るっていう事自体が愚問になってしまうからである。相互に何らかの反応があるからこそ、在ると言う事に意味を持つのである。 そして、全ての停止もありえないのである。 始まりも終わりもない現在において、全てが停止したなら、何で今は活動をしているかと言う事になる。 存在の活動が、仮に一旦停止したとしたならば、今活動しているはずもないし、地球も自転していないのである。永遠に在るとは、永遠に活動することで、「永遠に活動する循環」というのが、存在の正体なのである。 この事から、存在に意思があるとするならば、我々のような生命へ物理現象と異なるランダムな活動を要請しているように思われる。永遠の存在への役割として、物質の規則性と異なる心の個別の判断(反応)の連鎖によって、生命は円周率のように常にランダムな動きを全宇宙に提供しており、その事が存在の維持として必要なのではないのだろうか?なぜそう考えるかであるが、それは、永遠に活動する事が存在するという事だからなのだ。 仮に無理数である円周率がある時点で繰り返す事が発見されたとしたなら、存在とは永遠にランダムではなく、永遠に無限ループである証明になるのである。が、現在の在様を見たとき常にランダムであると思う。 我々は、どんなに進化しても、常に、明日に変化を求める。それは、生命の役割なのである(本能)。そして、生命が存在を支配することは不可能である。それは永遠にランダムである事が存在し続ける事に必要であるからであり、全てを支配するとは、ランダムで無くなるからで、活動の停止に等しいからである。 それが私の結論で、逆に考えれば、新しい明日を作る夢を提供してもらっていると言う事でもあり、存在自体が永遠に生きているという事である。 2013.10.6 sorry
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希望と正義と市民権

By yam1962 On 2013/09/12 · Add Comment
希望と正義と市民権 1.過去からのメッセージ 人は生きている。強いものに従属して生きただけとすらなら、現代人であるあなたは、なぜ今生にいるのか疑問を持つだろう。 長く市民権の認められなかった時代において、人が生きる理由を探す事はどういうことだったのだろうか? 昔の人々の全ては、自分の生きる理由を考えていたのだろうか? 夜空の星を眺めた時に何を感じたのだろうか?絶大に広がる夜空の星の在様と自分とをどのように解釈しただろうか? 確かに、毎日食して生きるそれだけで幸福と思えたなら素晴らしい。 農民の歴史では、盆と正月にしか酒は飲めなかったと聞く。しかし、それさえも贅沢だった時代は途方もなく(私の酒量に比べて)長かった。 去年、沖縄に行った時も、琉球で豚を絞めて食べるのは、盆と正月くらいで、だからこそ、そのありがたい肉を食べるのに無駄がない様に、鳴き声以外は全て食べると表現されていた。 現代人である私には、想像でしか語れない。その時代の停滞と個人の運命について。 しかし、加速する現代と違う、今と異なるゆっくりとした時代の流れの中から、世界は変化し現代の市民権を手に入れるにいたっている。 漁師や農民や職人など、いろいろな人は生れ落ちた運命に簡単には逆らえなかった。その中でも、社会変革の渦を起こし、その全ての命の導きによって現代人にその結論を示している。   2.市民権 私が上記を記述したのは、コントラストを示したかったからなのである。 さて、現代人の幸福や希望と過去の先輩方と違いはあったのだろうか? 仮に異なるとするならば、我々は市民権を得られなかったのでないか。 スピードの差はあるにせよ、強いものにただ従属する事に対する不条理をそれぞれが感じていたはずなのである。 夜空を見て、ちっぽけな自分の命をどのように人生の中で使うか、自問自答していた片りんは同じ人として感じていたはずと思いたいし、その結果、現代にいたると考えるのが自然ではないか。 ならば、なぜ市民権を求めたのだろうか? 生命として自由でいたいという本能が根底にあったはずではなかろうか? 自由を求めるとは一体なんなのだろうか? ただ欲望を満たすことではなかったはずだ。自分の子供の幸福への思いや友人の悲劇に納得ならないという本質的な人間の良い面が大きく働いたはずなのだ。 仮に、誰かの不幸を見たときに、納得できない不自由な運命に、行動はできなくとも悲しみや怒りという心の歴史的記憶として残っていったのだ。 だから自由とは、いわれのない不条理に対する反抗であり、それが権利と置き換わったのではないか。 現代人は、金銭的とか不運によって、完全な市民権に到達できていない事も多く存在するが、それぞれの事情を語らず、それを越えて大きな流れとして考えた場合、反抗によって得た自由の時代は先進国から消え失せ、自身の自覚にゆだねられているように思う。   3.自由と希望 自由というテーマと、希望というテーマを皆さんはどの様に感じますか? 自由が希望なのでしょうか?なぜ、先人は希望を捨てず命がけで何かをやり遂げてきたのでしょうか? 自由民主主義とは、どこに向かっているのでしょうか? それぞれが、無限大に自由を求めたとするならば、何でもしていいよとなります。誰かの富を勝手に自分のものとしたり、自分の目的の為に他を欺いて利用して達成したり。 それって、本来切実に自由を求めた先人と異なっているのは明白です。 簡単です。もう、先進国の一般人は十分に自由なのです。食卓が貧相であっても、自分が努力したらもっといいものを食せるしそのチャンスを提供されているのです。 自分の不自由は、生命の運命として誰にも変えられないものや、努力不足でしかないのです(大局的に語っています。いろいろな事情に目をつぶって)。 しかし、そんな自由を手にしている幸福な方に私は述べなれればならない。なぜ、我々が自由でいられるか。命がけで後輩に自由を与えてくれた先輩方の希望について。   4.希望とは正義によって成り立つ 結論は、悪は共有できないと言う事なのです。 悪は、前にその根源を記述しましたが(悪の起源)、悪の共有はできないのです。それは、人類という大きな組織の中で少数派でしかないからです。 大きな行いを成功させたのは、昔から市民の底力であったし、それは民主主義だったということです。誰かの強い欲では、人々はまとまれないのです。 結局、正義の共有が力を持つのです。一時的な不幸で、人類に理解できない力が世界を覆っても、それは一過性でしかないのです。 人は、明日にはいいことがあるという希望を持っています。それは、記憶と相反する未来への道しるべなのです。 日本が戦争に負けたのは当然だったのかもしれません(戦争した圧力の正当性や東京裁判の正当性を支持していません)。自国民を爆弾にするなんて正当性がないように感じます。 どっかのテロ組織と同じではないですか。そんな秩序が世界を支配していれば、人類の大きな不幸になったのではないでしょうか。 結局、希望とは共通する正(正義)なのです。必ず、正しいという理念やイデオロギーによって人類は進んできたのです。   5.世界市民という提案 先進国とその後から来る国には、いろいろな事情があるにせよ、そのような正義を信じる余裕があるかないかで分かれてるように思います。 どっかの暴君がこの世界を支配するなんて、もうありえないのです。 中国が世界の人口の1位です。中国国民の正義は、世界の構成割合として大きい。しかし、本当に世界を幸福にする理念を、今、持って行動しているのでしょうか? 中国共産党のコントロールを市民は本心で賛成しているのでしょうか?大きな国なのでまとめるのは大変でしょうし、現在は本当の市民権を与える過渡期の時期と思いますが、本当の世界や人類の共有とは、国による押しつけでない共感なのです。それが、世界市民なのです。仮に、中国が世界を牛耳ったとしたら、その先に何を想定しているのでしょうか?世界が中国になれば、全世界の市民は中国人ということになります。世界の全てが中国国民とするならば、仮想的な敵をどこに求めるのでしょうか?現状の外敵に対しで国をまとめる方法が使えなくなってしまいます。 これは、中国だけの問題ではありません。中国国民が先進的市民になれば世界はその分幸福になります。そのためには、我々先進国が富の配分を見直す事も必要になると思います。世界市民とは、そのような共有の理念が必要なのです。 未来を語ります。 上記の記述は、世界の希望と正義について語っています。悪とは人類にとって共有できないものという事で、そこには希望がないのです。 結局、世界の市民権は、世界に責任があります。アメリカだけが背負うものでもありません。国連にその部分は期待していますが。 そして、おのおの国のエゴによって強行する事はもう成功しないのです。それは、どっかの利己的な者のように、どっかの国が大きな権力を持って自分の欲のために他を利用する事となにもかわらないからです。 結局、世界の共有とバランンスによって、世界の正義を見つける。グローバルスタンダードとはそういう事なのです。 先人が命がけで与えてくれた市民権に対して、我々は、世界の市民権について一歩先に進んで、一つ先の人類を目指さなければなりません。 夢を語りすぎただろうか sorry 2013.9.12
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本当に強いものと、弱いもの

By yam1962 On 2013/08/14 · Add Comment
「本当に強いものと、弱いもの」 子曰く、やんぬるかな、われいまだその過ちを見て、内にみずから訟むる者を見ざるなり (自分の過ちに気づいたら自分で自分を責める。 そんな人間に一度も出くわしたことがないとは、なんと嘆かわしいことではないか。) 1.反省しないもの さて、この孔子の言葉に出会ったのは、30才くらいの頃だった。 2000年前の中国の思想家が人間の本質を語っている。私の30の時代は多くの悩みや疑問の中で生きていた。そして、自己嫌悪でいっぱいであった、それがこの言葉によって少し楽になった。 私なりの解釈では、人間とは大したものではないと語っているように感じた。孔子自身も同じであるという嘆きが見える。 10年くらい前のTV CMで、「反省だけなら猿でもできる。」というコピーがあった。50の私は、このコピーは間違っていると思う。孔子の指摘のとおり、都合が悪ければ、反省しないのが人間の本性なのである。 最近、いろいろな事で、私は浮いているように感じている。上記のような、観察の中で、まともな事を隣人に語っても伝わらないことが多いからである。私は、間違いは間違いだと語っているのに、だれかに責任転嫁したりして自分の責任とは認めようとしないからである。確かに孔子の指摘した通りなのだが、明らかに自身の落ち度である事を知らん顔し、更に悪質なものは、逆切れするのである。本当に、嘆くしかない。 孔子のいう、人とは自身を反省して責めないという指摘は、その前に完全にという意味がある。人は、生きるために、全て、完全に、反省し自己を責める事ができないという意味なのだ。だが、上記の反省しないものは、そんな崇高なものとはまるっきり異なる愚者の事である。 2.反省をできない理由 反省できないものは、なぜ、反省しないのだろうか?それは、弱虫だからである。 それは、自分の落ち度を受け入れる事は、精神的に追い込まれるからなのである。だれにも転嫁しないと言う事は、自分でその責任を感じ受け入れ改善しなければ、すくわれないからで、そういう事ができるものが強いもので、弱いものには無理なのである。 だから、指摘すると怒りだし、指摘した私自身を悪者として処理しようとするのである。憐れ愚者よ。ちなみに、私はそういうものとは、もう、付き合うことは止めにしている。 なぜか?愚者に何かを語っても、虚しくてエネルギーの無駄だからなのである。 50前は、そのようなものでも心を込めて付き合って来たが、結果は無駄だった。愚者に何を語っても愚者でしかないのだ。 ※愚者:教養がないとかでなく、人としての当たり前の礼節や心を知らないもの。大体において、謙虚でなく傲慢なものを指す。 3.権威大好き弱虫の姿 弱虫は、私を怖がる。権威と関係ない所にいる私を、試し怖がり排除しようとする。 ブリキの太鼓のように、大きな声を出して正しさを語るからだろう。 いいんだ、だから、権威なんてうっといしいものにすがろうとするものと、本当に強いものとの見分けをつけられる。 多分、私の本当の友人は、権威とかは重要でないく関係ない事を分かっている。本当に、一切が、権威や嘘によって自分を大きく見せようとする見栄っ張りではない、強い人なのだ。本当とちゃんと戦っている、権威に安住しない人なのだ。それは、権威側であってもそうではない側であっても。そういう人が賢い人なのだ。 そして、それが、強いか弱いか、本物かそうでないかを見切れる私のリトマス試験紙。 そういう人が私の本当の友人であり、語りあえる仲間なのだ。意見や立場が異なって、相手の言葉に同意ができなくとも、私情を交えず理路整然と真剣に論じれる友なのである。 そして、そういう人でリーダーになる人のみが、多くを幸福へ導ける人と私は信じている。 4.本当に強いもの 本当に強いものは、孤独に耐えられる。意味のない人の批判を、仲間を作って言いあげるようなバカらしい満足をすることがない。だから、往々にして孤独を味わっている。 孤独でも、仲間が多くても、相手に礼節をもって付き合い、自分の弱さの補填としての依存をすることがない。そして、いわれのないバカらしい批判に対して、毅然と対峙することができる。 賢者とは、本当の言葉と作り話を見抜けるものであり、それは、他の言葉を思い込みや私情を抜きにして聞けるものなのである。そのような状態でいるには、強さが必要なのである。自分都合の曇った目に気づいて反省し削除できるものなのである。 それは、どこにいても、どんな立場でも、その心を持っているものが本当に強いものなのである。 sorry 2013.08.14
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50才の感謝

By yam1962 On 2013/08/09 · Add Comment
50才の感謝。区切りを付ける意味でも 何かの気まぐれか、運命なのか、全ての偶然の中で僕はこの世に誕生した。それは、拒否権を持つことは許されず、あるいは合意した記憶を消す事が条件だったのか? 今は知る由もない。 生まれた僕には、母と父が与えられていた。生まれた後の最初の記憶は、玉ねぎの匂いのする母のエプロンだった。自分の意思は無く、ただそのエプロンをした人の所に、外で遊んだ後に疑問もなく帰る事が当然なのだった。その母と父と言う人から叱られたりたたかれたりした。恐怖は無かった。死ぬなんて知らなかった。ただ、痛いのは嫌だった。 僕は恋をした。小学校3年生だった。初恋と今は自覚している。 ぼくは、子供だったけれど、この恋の決着が、僕の好きをどのように昇華させていいのか分からず悩んだ。結婚の意味も、愛の目的も分からない歳だった。ただ、切実に一人の女の子を好きだった。 そろそろ中学校に入るくらいの頃だった。私の幼少期は粗暴だったけれど、そろそろ喧嘩が怖くなりだした。それは、父の教えだった。「男は人前で泣いてはならぬ」だった。僕の恐怖は、喧嘩で負ける事でなく、負けて泣くみじめさった。だから、喧嘩ですべてのプライドを捨てる理由が分からなかった。だから、喧嘩しない人になって行った。つまらないイザコザで、喧嘩して泣く事の理由にはならなかった。負けて泣くって事が最悪であった。それは死に等しかった。 僕は高校に入った。この頃から、粗暴でない普通の少年だった。ある日、仲の良い友人とちょっとした経緯で喧嘩になった。胸ぐらをつかみ一触即発だったが、体格的に自分の方が断然優位だった事で、負ける事はないのだった。だから、自分の方から喧嘩を止めたのだった。必ず勝つ喧嘩は、喧嘩とは思えないのだった。彼が憐れだったわけではない。自分の喧嘩に対する正当性に疑問を感じたからだった。 次の日、それを見ていたクラスの不良から、何であいつをブチのめさなかったのか?と問われた。僕は、勝つのが分かっていたからと答えた。彼は、不思議そうに僕を眺めていたが、何かを感じたようだった。多分、不良の彼と喧嘩したら僕はブチのめされるだろう。そして、その後、卒業するまで、彼はことある毎に僕に喧嘩をふっかけてきた。が、僕はそれを買うことはなかった。だって、勝つ喧嘩と同じように、負ける喧嘩もしたくなかったから。そして、不良の彼も喧嘩をふっかけるが、僕をぶちのめす事は無かった。多分、僕の強さと弱さを自分のことのように感じたからだったと思う。 大学に入った。大学は楽しかった。自分のテーマに向き合うことができたから。それだけの時間の余裕を僕に提供してくれた。ただ、金は無かった。多分、友人の中で一番金に不自由していたと思う。そんな大学生活の中で、恋をした。本当の恋愛だった。彼女は結婚を望んだ。彼女の事は大好きだったが、社会を知らなかった僕は、彼女を幸せにする自信が無かった。結局、別れることになった。彼女との別れに絶望していた僕は、その頃流行っていた佐野元春をよく聞いていた。 その中の歌詞で「生活といううすのろを乗り越えて」という言葉があった。僕はその言葉が示すものに、負けたのだと自覚するばかりだった。 そして社会人になった。 一流と言われる会社の関連企業に合格したのは、当然ではなく幸運だった。だから、同僚に負けない様に働いた。地方から、東京に出て、自分なりに必死に頑張った。それは、仕事もそうだが、それ以外の文化的というか首都東京という夢みたいな訳も分からないものに挑戦した時代だった。 大きな会社は僕に、組織の中で役割を果たすことを教えてくれた。今思えば、未熟で多くの人に迷惑をかけたが、ごまかしの無い真剣さは、誰にも後ろ指指されるものでは無かったと思う。ただ、その頃の大きな組織では異端児だったし、煙たがられてた。だが現代であれば違ったと思う。中途半端な仕事をする余裕は、今は無いから。だから、僕の方が先を行っていた。結局、その会社は14年務めて辞めてしまった。 東京にいる頃、付き合っていた彼女が、僕に教えてくれた事がある。「あなたは分析力に長けている」だった。その言葉はその後の僕に大きな影響を与えた。それまで、多くの苦悩をした根元がそれだった。フラットに状況を分析し、その本質を理解してしまう事が僕の苦悩の種なのだった 。いつも、女性は僕が気付かない事を教えてくれる。それは、今でも、そして、幸運な事だと思う。 福岡に戻り、数年して、結婚した。会社と飲み屋の往復に終止符を打ちたかった。愛する人の為に仕事や生活をしたい。誰かを守る為に社会と関わりたい。「生活といううすのろ」とやっと戦えるくらいになっていた。 今思えば、それが男なのだと思う。家族、友人、地域、社会、国家、人類、最後には全て。そんな存在を守る事が男なんだと思っている。 子供だった僕にそんな人生観を教えてくれたのは、妻だった。彼女は、真剣に逃げることなく、僕に向かって来た。喧嘩も散々した。だけど、妻は逃げなかった、一歩も引かなかった。僕も逃げなかった。そして分かった、教えてくれた。男は、何でもいい、守るという事がカッコいいって事を。こんな生活感が、今、私は保守主義者である。と言える出発点であることは、間違いない。 妻にいつも感謝している。子供だった僕を本物の男になる道筋を教えてくれて。 自画自賛だが、彼女を妻とした自身に間違いが無く、その選択に幸運を感じる。ありがとう嫁! 今の僕は、半分は貴方のおかげなのです。そんな事が、恋から愛に昇華しているのだと自覚するばかりなのです。 40くらいからは、今までの人生で疑問に感じた事を展開する時代となった。他者の幸福が僕の生きる糧なんだと理解しているけれど、人とは生きる為にいろいろな都合がある。自分の負けや弱さを補填しなければならない。僕は、その全てに答えを示したい。が、そんなに簡単ではない。個々の幸福を実現する事は大変なのだ。僕は、性善説支持者なのだけれど、そう思えないことばかり。上から、正義を語っても通じない。それが、人であり我々の実体なのだ。 50になった僕は、隣人の笑顔に幸福を見て自分のものとする。だけど、逆に、皆のノイズも見えてくる。隣人の笑顔が、僕の生きる糧なのに。 それが、人生であり生命の性とも思えるけれど。 僕は、みんなが好きといつも自覚させられる。諦めたいと思っても、結局、そういう風に行動している。そして、出来るだけ幸福でいて欲しい。ありがとう、関わってくれた人々。 結局、僕に関わってくれた心が、本当が、僕の肉になり明日を生きる糧となっている。 まったく立派でない僕に、多くの真心や本気という栄養をくれてありがとう。 あなた方に頂いた養分は、僕なりに誰かの為に、肥料となれば本望なのです。 僕の言葉が落ち葉となって 僕の肉が腐り全てに溶け込んで 僕の骨が証となって 地や海と全てと一緒になって そんな事を教えれくれた全てが、愛おしい。 sorry 2013.8.9
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叙事 「愛の危機」

By yam1962 On 2013/07/12 · Add Comment
愛の危機 否応なく、本当の話しを語らせてもらう。 1.愛としての事実 僕は、愛を諦めかけている。 僕が愛に飢えてるわけではない。 僕には、崇高な愛が宿っている。 そうじゃないんだ、愛を貢いでも、その反応は、肉欲やプライドだったり、失望の連続で、僕の中の愛にはほど遠い。 その絶望のマイナスバイアスが、僕を蝕み。もう諦めていいよねって手招きするんだ。 いつも、明日の正義をエサにしてきたけれど、もうよかろうって声が満ちあふれてくる。 僕が命がけで、信じた未来が、月が陰るように、僕の希望という光を遮っている。 僕の未来への正義を、今、変更しろと、促している。 悪魔を肯定しかかっている。 誰か、崇高な光を発してくれないか! その光を放つ若者は多い。 ありがとうって感謝している。 しかし、僕もそうであったように。知らない正しさに酔いしれていては、何もできないのだ。 正しいを叫ぶなんて誰にでもできることなのだ。 全ての不合理と合理を超えて、僕と話してほしい。 そんな、クールな人物だけが、僕には必要なのだ。 誰か僕を迎えにきてくれないだろうか。 自立的を目指す僕の泣き言でしかないが。 2.そして定められた役割? 無秩序には限界がある。だから、秩序を定めているのが現実。 生命は、生きようと活動するので、停滞した既に存在する秩序に反抗する。 それが、人間の知能であり科学であり幸福を求めるということなのだ。 十分に幸福である先進国の現実でも、不幸という価値観で全てが駒を進めたがる。 なぜか? 秩序をくつがえし生きるのが生命だから。 しかし、僕は幸福を自覚している。今、何の苦痛もないカラッポな自分を不幸とは思えない。 そして、幸福を更に求める今日の否定という秩序への破壊運動自体が、 知的生命の存在理由で、 我々は、その原始的役割の中にいる様に感じる。 で、こんな事が分かる僕の役割は、いつもそうだった気がする。
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詩 「顔のないアジア」

By yam1962 On 2013/07/01 · Add Comment
顔のないアジア ここは、顔のないアジア。 一人一人が自由で幸福な国。 幸福の雲に、切実を忘れ去っている。 本当は皆これでいいのかと感じているけれど、リーダーですらどうすることもできない。 世界一民主主義が成功した顔のない国。 ここは、優しいだけのアジア。 一人一人が弱々しい国。 自分の優しさと弱さを勘違いしている。 本当は、誰も侮辱したくはないのに優しいはずなのに、耐えきれない。 世界一不思議ばかりの国。 ここは顔のないアジア、他のアジアと違う都会の国。 本当は、TVで見た他のアジアと同じように映っているのに。 そして、全世界に広がりつつある、実体のないまとまり。 本当は、元々実体なんてなくて後から付け加えたにしか過ぎず、ただ在っただけなのか? そうならば、今の我々は昨日と明日を結びつける理由を探さなければ
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「悪の起源」

By yam1962 On 2013/03/10 · Add Comment
「悪の起源」~なぜ心の起源を語るのか?それは、存在が求めているからである 悪という字を私なりに考えてみたところ、亜の心と書き直せる。亜の心とは、心が少ないという意味を持つ。 1.進化 社会の起こる前の人類を想像してみることにしよう。それは、猿より前の単純な生命であったころだ。 その在り様は殺しあいではなかったのか? 生命は何らかの生命を喰う事によって生きることが基本となる。植物においてさえ、じっと耐えてその養分を吸収しているのである。それが、生命の法則である。 そんな、単純な生命を先祖に持つ人類は、進化によって家族を持ち、社会を持つように進化してきた。そして、その過程で悪が発生するのである。 2.社会 社会とは実は、人類の鎧なのである。 多くの人類によって構成される社会とは、他の脅威から自分自身を防衛するための仕組みとして有効に機能する。 防衛と言っていいか分からないが、食料を確保するにも有効にその機能を発揮する。 そういう事によって社会というものに人々が寄り添い、従う。それは、恩恵を受けるからなのだ。 3.社会の形成 ならば、社会はどの様に形成されてきたのであろうか? 社会による恩恵が自身を幸福にする事を発見した人類は、その構成方法を模索するにいたる。 そこで、社会がまとまるには秩序が必要となり、それを、人類はルールとよぶ。単純だが、それなりの決まりを守る事によって構成し、まとまってきた。 そして、その決まりを守らないものが悪と呼ばれ、それは、社会にとって不利益な行動というこなのだ。 現代において、その事を法律として定めているし、新しい不利益が発生したならば、その都度、法律を追加・修正しているのである。 4.人類の姿 本当は、猛獣に喰われるだけの人類。それを克服するために社会を作り現代にいたる。 基本的に個々の人類とは、弱い生物だったのである。その弱い生命が、家族、村、社会、国、人類というような単位でまとまる事によって、強い外的の餌食とならないように勤めてきたのであり、それが、新しい進化の形なのかもしれない。 弱い生き物は群れる性質をもつ。アジやイワシ、哺乳類では草食獣にその姿がある。人類も本質は弱い生命体なのである。 しかし、人類がなぜどう猛な生物より強いか?または、猛獣よりも強くなったのか?それは、心を持っているからに他ならない。というか、弱いから心を持ったとも言える。 5.弱いことと心 人類は弱いから心を持ち、知能を持ったと私は思っている。 弱いから、他に対して慈悲の心をもつにいたったのである。それは、相手の滅びの姿に自身を投影するからである。弱さのなせる技で、人類にはなぜかその能力を増強させてきた。 そして、その弱い人類が心という能力を発揮し、正しいというルールを発見するに至ったのである。 正しいとは、滅ぼされた他に自分を発見し、その事を受け入れがたく感じ、非道な事に自身の未来の無念を発見し、そうなりたくはないという心の悲鳴に対する主張なのだ。 そして、人類の歴史は、その繰り返しによって(数々の後悔によって)正しいを高めてきたのである。 更に言えば、それは、優しさへと成就するのである。よって、優しいとは野蛮とほど遠いところに存在するのである。 6.だから悪とは このような、心の歴史を知らないものが、悪となる。悪とは、心が薄いということなのである。 その事が示すのは、心を知らないものは、結局、この様な歴史的背景を理解せず、社会ルールまたは秩序を破壊する存在となり、人々を不幸へと追いやるやからということなのだ。 7.私の見た未来 しかし、複雑化した現代では、悪も理由があって悪を演じている。正はその対局で対峙している。そしてそれは、敵対する相手を自分の正(生)に対して悪とみなしている。その正と悪の試練自体が人類の進化であり、その連動または反応は、人類全てが幸福になるまで続くだろう。 未来の夢を語るとするならば、人類全てが幸福を手に入れた後には、生命全ての幸福を願うだろう。それは、同じ生命としての役割と思える。その兆しは現代にも多く表れている。 そして、人類やその生命を救う友人として適切なのがテクノロジーなのである。私の夢は、その心を持たない友と一緒にそういう幸福の方向へ進んでほしいし、進むべきと考えているのです。 皮肉にもテクノロジーは、現在、心を持たない、だから、無垢なテクノロジーに人類は安心し、友として迎え入れ今も付き合いが続いている。私にはそう見える。 そして、もう一つ、見えるものがある。それは、危惧だ。 長い歴史の中で、地球で一番強くなった人類は、今、方向性を見失いかけている。生物として強くなったことが、弱さの美徳である優しさや、生に対する謙虚さを忘れつつあるのかもしれない。その事は、哺乳類の中で最大に分布する人類が、脅威を同胞である人類に対して感じ、刃を向けている現実に表れている。この、悲しい試練の行先は、人類自身が次への切符を受け取れるのかを示しているように感じる。それを自分たちの英知によって越えられなければ、次の何かにバトンを渡す事となるように思えて仕方がない。
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