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0.序論
このブログのテーマである「存在としての1つの答えを探す」というのは、私の幼少期からの疑問であった「何で全ては在るのか」という疑問が発端なのである。
怖い事だが、私の子供時代に感じた疑問だった。全てが存在しないという事で何か不都合はあるのだろうか?と考えてしまったのである。全てとは、宇宙さえないという事で、自分自身その発想に恐怖を感じた。
しかし、過去のブログである人生道場の最初の記述の「肯定とは絶対」に示したように、在るという事実は覆らないという事に至ったのである。当たり前の様だが。
そして、生命とは何かとか、物質と生命の違いは何かとかの根本は、なぜ、今が存在するかという事が大きなテーマと自分は考えたのである。
ならば、存在とはどういう事なのか、それ以後考え続けた。
そして、肯定とは絶対を2006.10に記述して、7年たった今、その形が見えてきた。その結論をここに展開する。

1.無という妄想
無という漠然としたものの妄想は、人間の意識や生命の命が起因している。
このブログの中で、「無なんて誰も見た事がない」という趣旨の記述を何度も用いている。
それは、無といものは観念であり、事実としてどこにも無なんてあり得ないというのが私の結論なのである。
宇宙空間の、星と星の間は真空であり無と定義するのは乱暴である。仮に何も物質やエネルギーやニュートリノみたいなものが無くても、そこには、空間が存在する。
私の考える無とは、空間さえ存在しないという事になる。それが、本当の無と定義している。
よって、存在というものは、どこにも無をも持たないという結論になる。
宇宙とは、人間が把握している空間という意味で、宇宙の外は空間さえないなんておかしな発想は理解に苦しむ。
宇宙はどんどん加速しながら膨張している。宇宙の果ての外が無なら、膨張はできないのではないのだろうか?
宇宙の果ては、無に行ってしまったら消滅するというのが正しいのではなかろうか?
無とは、人間が眠るなどして意識が無くなるという事から発想されたとしか思えないし、何かの死から発想したのだろう。

本当は、形とは、人間が把握する為に、固有を分類して名詞として表現したという事で、例えば、草が枯れたら、その草が滅びたので消滅したように感じたのであって、草は枯れて土や空間にとけ込んで何かに変化したにすぎず、消滅したわけではないのである。
人間の認識の固有(この例では草とい形)が無くなってしまったにすぎない。

2.始まりについて
さて、無という妄想では、固有は無くなったのではなく、何かに変化したという物理的な現象を説明した。ならば、次は時間軸で話をしたい。
実は、始まりなんて本当はどこにもないのである。生命は生まれて死を迎えるので、我々人間は、始まりと終わりがあるように思うが、存在がビッグバーンによって、突如出現したなんてナンセンスなのである。
無から始まるなんてありえないのである。全くなにも無いところから偶然に何かが出現するなんてありえないのである。
無から有が発生としたのであるならば、そのトリガー(きっかけ)が必要となる。ならば、その想像を超えるトリガーはどこから発生するのであろうか。ビッグバーンより遥か遠い過去に。
きっかけによって存在が発生したなら、そのきっかけの前には何かが在ったとしか説明がつかない。だから、無というものはどこにも無かったということで、永遠に何かが在ったし、今後も永遠に何かが在るのである。
永遠に何かが存在した中で、この宇宙はできているのである。
結局、永遠に在ったから今があり、無から始まったということはおかしなことなのであり、結局、今があるという事は、永遠に在ったという証なのであり、無はどこにも無かったという事なのである。
ここでも、人間の時間軸の過去と未来の認識の果てを無という観念が支配しているとうことで、分かりにくいかもしれないが、存在は、始まりも終わりもない永遠であることが結論となる。

3.無といものが発生したなら
永遠に存在はあり、始まりも終わりもないと定義した。ならば、そこから1つの答えが見えるのである。それは、存在という全体は何も減らないし、逆にいえば増えないということになるのである。
無がどこかに存在するならば、全体が増えたり減ったりしているはずである。しかい、今があると言う事は、そんな事実がどこにもなかったという事なのである。
だから、今が在るとは、何も無くならない事を示していて、ただ、変化しているという事が実証されている。
実は存在は永久機関なのである。それが存在の秩序なのである。全ての存在は、変化し続けているだけで、一切が、全てのトータルとして消滅も増加もしないのである。
そのトータルが、どのようなトータルかは、私にも分からない。しかし、その合計は、人間の認識する全てを超えている。今、分かるのは、

存在の合計(一定)=大きさ+光度+温度+速度+加速度+重力+磁気+物質+エネルギー+命+空間+時間+意識+思考+・・・・+χ

の様な未知なるものを含めた全ての合計と思われる。
現在、地球上でエネルギーを使っている。それは、使う事によって、動力や光や熱またはCO2に変化する。そのエネルギーを人間の為に用いれば、人口が増加する。結局、エネルギーは何かに変化し、また、何かの変化がエネルギーの元になるというように、存在のトータルの循環によって、そのトータルに変化は無いのである。
人間に可能であるかは不明だが、3次元に時間が加わり4次元、そして、上記の式の変数が増えれば増えるほど、次元の軸が増えるのであり、全ての軸が明らかになれば、存在の一定バランス(循環)が証明されるはずなのである。
なぜそう断言しているかであるが、そのトータルに増減があれば、無が訪れるという事になり、そんな事は、今があるのであり得ないのである。なぜかといえば、無から有が生まれないという事は増加が無いという事で、今があるので減少も無かったという事から、有から無も生まれないと証明できるのである。
ここまでくると、無自体が何なのか不明になってくる。一切が無いなんて、結局あり得ないのであり、何かの固有が変化した事を無と感じているのである。なぜ、そのように感じるかと言えば、何に変化しているか不明であると言う事で、無の本性は、不明であると言う事なのである。

4.命は無くなるのだろうか?
命は、確かにその固有的まとまりが死ぬと無くなる。しかし、上記の理屈に当てはめると、無くなるはずがない。他の現象と同じで何かに変化して、存在のトータルとして循環しているのである(物質としての肉体ではなく、空気のような意識や心の事です)。
意識は死を迎えると無くなると人は考えている。しかし、今の自分と違う何かに変化し、また、存在の中に何かの形で出現するように思う。
現代の科学では、我々の意識とは何なのかを解き明かせていない。多分、物質的アプローチで解釈しようとしているからだと思われる。
最近、雑誌ニュートンに、重力(万有引力)の特集があって、ばぜ、そのような引力が発生するのか不明と書かれていた。よくわからないけれど、核エネルギーがどうしてあのようなエネルギーを発生するかも不明だろうし、火が燃える時に、なんで、温度が高くなるか根源的理由も本当は不明なのではなかろうか(解明されているならば不見識をお詫びいたします)?それは、規則性を発見しただけなのである。
本来、根源的な事は不明な事が多い、その最大な疑問が、何で今が在るかということである。1+1=2と数える事を定めたように、根源的事象の規則性を見極めて整理して行けば、全てのトータルの変数の1つが解明されるだろうし、その中に人の意識なども含めていけば、全てのバランス的循環が解明されるように思う。
宇宙のダークエネルギーやダークマターなどの不明な何かも、もしかすると、生命の意識や知能などと関係があるように思えて仕方ない。
このように、存在の合計とは、全てを含めるべきなので、命(意識や心)という変数も、死後何かに変化し循環しているのである。
※何に変化するかは不明なので、変な気は起こさないでください。

5.トータルが一定を存在とするならば
存在のトータルが減りも増えもしない。そういう結論を述べてきた。ここで、1つの疑問が私には残った。
全てのトータルが一定とするならば、全てが停止していても同じでは無いかと、それならば、全てが停止してただ存在しているって事があるのか?それはどういうことだろうか?

結論は、全てが停止したものは、在ると言わないのである。
何も変化しないものを在ると言っていいのだろうか?それは、違うのだ。在るとは、相対的なものなのである。
何かの物質や素粒子などが、反応しあうので在るというのである。
勝手な定義のように思われるかもしれないが、なぜそう定義するかと言えば、停止したものを在るとすると、何も反応がない停止した世界において、在るっていう事自体が愚問になってしまうからである。相互に何らかの反応があるからこそ、在ると言う事に意味を持つのである。

そして、全ての停止もありえないのである。
始まりも終わりもない現在において、全てが停止したなら、何で今は活動をしているかと言う事になる。
存在の活動が、仮に一旦停止したとしたならば、今活動しているはずもないし、地球も自転していないのである。永遠に在るとは、永遠に活動することで、「永遠に活動する循環」というのが、存在の正体なのである。

この事から、存在に意思があるとするならば、我々のような生命へ物理現象と異なるランダムな活動を要請しているように思われる。永遠の存在への役割として、物質の規則性と異なる心の個別の判断(反応)の連鎖によって、生命は円周率のように常にランダムな動きを全宇宙に提供しており、その事が存在の維持として必要なのではないのだろうか?なぜそう考えるかであるが、それは、永遠に活動する事が存在するという事だからなのだ。
仮に無理数である円周率がある時点で繰り返す事が発見されたとしたなら、存在とは永遠にランダムではなく、永遠に無限ループである証明になるのである。が、現在の在様を見たとき常にランダムであると思う。

我々は、どんなに進化しても、常に、明日に変化を求める。それは、生命の役割なのである(本能)。そして、生命が存在を支配することは不可能である。それは永遠にランダムである事が存在し続ける事に必要であるからであり、全てを支配するとは、ランダムで無くなるからで、活動の停止に等しいからである。
それが私の結論で、逆に考えれば、新しい明日を作る夢を提供してもらっていると言う事でもあり、存在自体が永遠に生きているという事である。

2013.10.6 sorry

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