彼方

kanata

向こう側の岸にたどり着いたのは、今までで10人にも満たない。
たどり着いたものさえ満足してたどり着いてもいない。
こちら側から船を出航させ1つだけで向こう岸にたどり着いた。
途中で難破せずひき返さず、その生命を信じて進みきったのだ。

その方法が後に語り継がれている。出来るだけ身軽に、何の荷物ものせずただただ目指して行った。

私がなぜ彼方の事を知っているのだろうか?
私の手元になぜかその海図が届いたからで、古めかしいその図は消えかかりどうしようもなくわかりずらい。
だから、誰も欲しがらない。

誰も欲しがらないから、筋違いものの私に届いたのだと思っている。
そして、まだ出航の準備は整っていない。
十分な準備が必要だと分かっているだけだ。

彼方にたどり着く自信なんてない。ただ、信じるだけでいるしかない。
恐怖もあるけれど、恐怖は船を出さなくても同じだということくらいはわかっている。

私が船を出しても難破してしまうかもしれない。
けれど、不完全かもしれないが船の設計図は残せる。
私が出航した後、誰かがその図面を捨てようが拾おうが私の目的ではないようなので、気にはしていない。
ただただ、準備をしている。

私の役割を考えていた。
向こう岸に着くかどうか分からない船の図面を残す意味を。
たぶん、消え掛かっている達人達の海図が消えないようにあらためて焼き付けることに意味があるという事で、だから超えるための図面が届けられたのだ。
それにただ従えそうだから送り付けらてたということか。
大袈裟すぎると済ませられるのか、たどり着いたら考えてみよう。

一つだけ分かるのは、富とか幸福とか平和とか分かりやすい言葉と違う図面は、それを分かるものにしか届けられていないようであるということです。
悪魔は似たような図面を分かるものにしのばせるけれど、本当に受けとめられるものは、完全に見分けれるのです。当たり前に、進歩という最前線を。
だから、その最前線であるほど誰も到達していない分一人ぼっちの孤独をあじあう運命なのだ。

この詩の本当とは、孤独な声で称賛のためでないのはウソではないが、聞きとめてほしいという期待ももっていないのも事実である。
そして、ならばなぜこの「詩」を表明しているのかという疑問も理解できるけれど、それに応えるなら、生きているからだとしか表現できない。憎しむことから遠ざかるためだと感じているだけなのだ。

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