希望と正義と市民権
1.過去からのメッセージ
人は生きている。強いものに従属して生きただけとすらなら、現代人であるあなたは、なぜ今生にいるのか疑問を持つだろう。
長く市民権の認められなかった時代において、人が生きる理由を探す事はどういうことだったのだろうか?
昔の人々の全ては、自分の生きる理由を考えていたのだろうか?
夜空の星を眺めた時に何を感じたのだろうか?絶大に広がる夜空の星の在様と自分とをどのように解釈しただろうか?
確かに、毎日食して生きるそれだけで幸福と思えたなら素晴らしい。
農民の歴史では、盆と正月にしか酒は飲めなかったと聞く。しかし、それさえも贅沢だった時代は途方もなく(私の酒量に比べて)長かった。
去年、沖縄に行った時も、琉球で豚を絞めて食べるのは、盆と正月くらいで、だからこそ、そのありがたい肉を食べるのに無駄がない様に、鳴き声以外は全て食べると表現されていた。
現代人である私には、想像でしか語れない。その時代の停滞と個人の運命について。
しかし、加速する現代と違う、今と異なるゆっくりとした時代の流れの中から、世界は変化し現代の市民権を手に入れるにいたっている。
漁師や農民や職人など、いろいろな人は生れ落ちた運命に簡単には逆らえなかった。その中でも、社会変革の渦を起こし、その全ての命の導きによって現代人にその結論を示している。
2.市民権
私が上記を記述したのは、コントラストを示したかったからなのである。
さて、現代人の幸福や希望と過去の先輩方と違いはあったのだろうか?
仮に異なるとするならば、我々は市民権を得られなかったのでないか。
スピードの差はあるにせよ、強いものにただ従属する事に対する不条理をそれぞれが感じていたはずなのである。
夜空を見て、ちっぽけな自分の命をどのように人生の中で使うか、自問自答していた片りんは同じ人として感じていたはずと思いたいし、その結果、現代にいたると考えるのが自然ではないか。
ならば、なぜ市民権を求めたのだろうか?
生命として自由でいたいという本能が根底にあったはずではなかろうか?
自由を求めるとは一体なんなのだろうか?
ただ欲望を満たすことではなかったはずだ。自分の子供の幸福への思いや友人の悲劇に納得ならないという本質的な人間の良い面が大きく働いたはずなのだ。
仮に、誰かの不幸を見たときに、納得できない不自由な運命に、行動はできなくとも悲しみや怒りという心の歴史的記憶として残っていったのだ。
だから自由とは、いわれのない不条理に対する反抗であり、それが権利と置き換わったのではないか。
現代人は、金銭的とか不運によって、完全な市民権に到達できていない事も多く存在するが、それぞれの事情を語らず、それを越えて大きな流れとして考えた場合、反抗によって得た自由の時代は先進国から消え失せ、自身の自覚にゆだねられているように思う。
3.自由と希望
自由というテーマと、希望というテーマを皆さんはどの様に感じますか?
自由が希望なのでしょうか?なぜ、先人は希望を捨てず命がけで何かをやり遂げてきたのでしょうか?
自由民主主義とは、どこに向かっているのでしょうか?
それぞれが、無限大に自由を求めたとするならば、何でもしていいよとなります。誰かの富を勝手に自分のものとしたり、自分の目的の為に他を欺いて利用して達成したり。
それって、本来切実に自由を求めた先人と異なっているのは明白です。
簡単です。もう、先進国の一般人は十分に自由なのです。食卓が貧相であっても、自分が努力したらもっといいものを食せるしそのチャンスを提供されているのです。
自分の不自由は、生命の運命として誰にも変えられないものや、努力不足でしかないのです(大局的に語っています。いろいろな事情に目をつぶって)。
しかし、そんな自由を手にしている幸福な方に私は述べなれればならない。なぜ、我々が自由でいられるか。命がけで後輩に自由を与えてくれた先輩方の希望について。
4.希望とは正義によって成り立つ
結論は、悪は共有できないと言う事なのです。
悪は、前にその根源を記述しましたが(悪の起源)、悪の共有はできないのです。それは、人類という大きな組織の中で少数派でしかないからです。
大きな行いを成功させたのは、昔から市民の底力であったし、それは民主主義だったということです。誰かの強い欲では、人々はまとまれないのです。
結局、正義の共有が力を持つのです。一時的な不幸で、人類に理解できない力が世界を覆っても、それは一過性でしかないのです。
人は、明日にはいいことがあるという希望を持っています。それは、記憶と相反する未来への道しるべなのです。
日本が戦争に負けたのは当然だったのかもしれません(戦争した圧力の正当性や東京裁判の正当性を支持していません)。自国民を爆弾にするなんて正当性がないように感じます。
どっかのテロ組織と同じではないですか。そんな秩序が世界を支配していれば、人類の大きな不幸になったのではないでしょうか。
結局、希望とは共通する正(正義)なのです。必ず、正しいという理念やイデオロギーによって人類は進んできたのです。
5.世界市民という提案
先進国とその後から来る国には、いろいろな事情があるにせよ、そのような正義を信じる余裕があるかないかで分かれてるように思います。
どっかの暴君がこの世界を支配するなんて、もうありえないのです。
中国が世界の人口の1位です。中国国民の正義は、世界の構成割合として大きい。しかし、本当に世界を幸福にする理念を、今、持って行動しているのでしょうか?
中国共産党のコントロールを市民は本心で賛成しているのでしょうか?大きな国なのでまとめるのは大変でしょうし、現在は本当の市民権を与える過渡期の時期と思いますが、本当の世界や人類の共有とは、国による押しつけでない共感なのです。それが、世界市民なのです。仮に、中国が世界を牛耳ったとしたら、その先に何を想定しているのでしょうか?世界が中国になれば、全世界の市民は中国人ということになります。世界の全てが中国国民とするならば、仮想的な敵をどこに求めるのでしょうか?現状の外敵に対しで国をまとめる方法が使えなくなってしまいます。
これは、中国だけの問題ではありません。中国国民が先進的市民になれば世界はその分幸福になります。そのためには、我々先進国が富の配分を見直す事も必要になると思います。世界市民とは、そのような共有の理念が必要なのです。
未来を語ります。
上記の記述は、世界の希望と正義について語っています。悪とは人類にとって共有できないものという事で、そこには希望がないのです。
結局、世界の市民権は、世界に責任があります。アメリカだけが背負うものでもありません。国連にその部分は期待していますが。
そして、おのおの国のエゴによって強行する事はもう成功しないのです。それは、どっかの利己的な者のように、どっかの国が大きな権力を持って自分の欲のために他を利用する事となにもかわらないからです。
結局、世界の共有とバランンスによって、世界の正義を見つける。グローバルスタンダードとはそういう事なのです。
先人が命がけで与えてくれた市民権に対して、我々は、世界の市民権について一歩先に進んで、一つ先の人類を目指さなければなりません。
夢を語りすぎただろうか sorry 2013.9.12