「本当に強いものと、弱いもの」
子曰く、やんぬるかな、われいまだその過ちを見て、内にみずから訟むる者を見ざるなり
(自分の過ちに気づいたら自分で自分を責める。
そんな人間に一度も出くわしたことがないとは、なんと嘆かわしいことではないか。)
1.反省しないもの
さて、この孔子の言葉に出会ったのは、30才くらいの頃だった。
2000年前の中国の思想家が人間の本質を語っている。私の30の時代は多くの悩みや疑問の中で生きていた。そして、自己嫌悪でいっぱいであった、それがこの言葉によって少し楽になった。
私なりの解釈では、人間とは大したものではないと語っているように感じた。孔子自身も同じであるという嘆きが見える。
10年くらい前のTV CMで、「反省だけなら猿でもできる。」というコピーがあった。50の私は、このコピーは間違っていると思う。孔子の指摘のとおり、都合が悪ければ、反省しないのが人間の本性なのである。
最近、いろいろな事で、私は浮いているように感じている。上記のような、観察の中で、まともな事を隣人に語っても伝わらないことが多いからである。私は、間違いは間違いだと語っているのに、だれかに責任転嫁したりして自分の責任とは認めようとしないからである。確かに孔子の指摘した通りなのだが、明らかに自身の落ち度である事を知らん顔し、更に悪質なものは、逆切れするのである。本当に、嘆くしかない。
孔子のいう、人とは自身を反省して責めないという指摘は、その前に完全にという意味がある。人は、生きるために、全て、完全に、反省し自己を責める事ができないという意味なのだ。だが、上記の反省しないものは、そんな崇高なものとはまるっきり異なる愚者の事である。
2.反省をできない理由
反省できないものは、なぜ、反省しないのだろうか?それは、弱虫だからである。
それは、自分の落ち度を受け入れる事は、精神的に追い込まれるからなのである。だれにも転嫁しないと言う事は、自分でその責任を感じ受け入れ改善しなければ、すくわれないからで、そういう事ができるものが強いもので、弱いものには無理なのである。
だから、指摘すると怒りだし、指摘した私自身を悪者として処理しようとするのである。憐れ愚者よ。ちなみに、私はそういうものとは、もう、付き合うことは止めにしている。
なぜか?愚者に何かを語っても、虚しくてエネルギーの無駄だからなのである。
50前は、そのようなものでも心を込めて付き合って来たが、結果は無駄だった。愚者に何を語っても愚者でしかないのだ。
※愚者:教養がないとかでなく、人としての当たり前の礼節や心を知らないもの。大体において、謙虚でなく傲慢なものを指す。
3.権威大好き弱虫の姿
弱虫は、私を怖がる。権威と関係ない所にいる私を、試し怖がり排除しようとする。
ブリキの太鼓のように、大きな声を出して正しさを語るからだろう。
いいんだ、だから、権威なんてうっといしいものにすがろうとするものと、本当に強いものとの見分けをつけられる。
多分、私の本当の友人は、権威とかは重要でないく関係ない事を分かっている。本当に、一切が、権威や嘘によって自分を大きく見せようとする見栄っ張りではない、強い人なのだ。本当とちゃんと戦っている、権威に安住しない人なのだ。それは、権威側であってもそうではない側であっても。そういう人が賢い人なのだ。
そして、それが、強いか弱いか、本物かそうでないかを見切れる私のリトマス試験紙。
そういう人が私の本当の友人であり、語りあえる仲間なのだ。意見や立場が異なって、相手の言葉に同意ができなくとも、私情を交えず理路整然と真剣に論じれる友なのである。
そして、そういう人でリーダーになる人のみが、多くを幸福へ導ける人と私は信じている。
4.本当に強いもの
本当に強いものは、孤独に耐えられる。意味のない人の批判を、仲間を作って言いあげるようなバカらしい満足をすることがない。だから、往々にして孤独を味わっている。
孤独でも、仲間が多くても、相手に礼節をもって付き合い、自分の弱さの補填としての依存をすることがない。そして、いわれのないバカらしい批判に対して、毅然と対峙することができる。
賢者とは、本当の言葉と作り話を見抜けるものであり、それは、他の言葉を思い込みや私情を抜きにして聞けるものなのである。そのような状態でいるには、強さが必要なのである。自分都合の曇った目に気づいて反省し削除できるものなのである。
それは、どこにいても、どんな立場でも、その心を持っているものが本当に強いものなのである。
sorry 2013.08.14