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負けるって私に言われても

By yam1962 On 2017/12/30 · Add Comment
いいかい、今まで紆余曲折あったがfinishだ。 もういいだろ、終わりにする。 明日は、君たちと共に探す。 外れたい方はご勝手に。フゥ 俺がどう死ぬか、誰にも支配されん。 それが負けったって憎しみを優しい私に向けられても知らない。という。 君の幸福は君が創るべきだ。
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形と悟り

By yam1962 On 2017/12/26 · Add Comment
「形と悟り」 形には意味がある。 人間が認知できる三角や四角または六角形などの形分類は、我々の限界を示している。 それは、形認識が、知能の限界をうつす指標だと主張させていただく。 人を越えた宇宙とは上下が無く無限的存在である。形を示していない。 それは、我々の認識力を越えている存在だからだろう。 人は、立って生きているので、その潜在思想は、上下左右の認識であるけれど、その認識とは宇宙の在り様と異なる。宇宙は球のように、全てに縦横なく拡がっているだけなのだから。 地球は、存在として自転しているので上と下がある事になっているが、それを意識し図にしたのは人だ。何故なら、自分の視点で認識するからである。特に北半球の地球人の図だ。 地球の自転の傾き23.4°は太陽からみた自転のズレを示すものだが、宇宙は、縦横なんて関係なく存在している。縦横とは人がその様に当てはめているだけで、二次元のグラフ座標のように、太陽との関係でそのように地球との関係を相対的に示しているってだけだ。 それは、人が地球の重力に従って直立歩行しているから上下を感じているからであろう。 上下の認識による自分目線の認識って事が理解として必要だから縦横の座標的認識によって理解し、それを共有するために分かりやすく説明して示したって事だ。上下的に説明しているから、みんなは理解できるし、発見した本人もそのような目線で23.4°を見つけたはずだ。 その認識は無駄ではない。人間の発展に寄与するものだ。 が、それを理解した上で差し引いた時、すべての理解者になるのだ。 形の本性は、結局、右肩上がりを含む(必ず未来の発展を)が、二次元の円、三次元での球はそうではない。全てのバランス均衡の形で丸を保っている。 だから、球とは我々にとって、三次元認識の完全系なのである。 仏教的悟りとは、自分視点を差し引いて達する感覚であり、丸のようにバランスの中で均衡を理解した姿であるはずなのだ。 人間として、生や社会や感情などをを差し引いた後に残る真理を究極的に理解するのが悟りで、それは、球に達しったて事である。 真理の姿を直視できることであり、その悟り人は球を理解するだろう。 形の姿の球のように、理解に達したってことであろう。
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存在と知の相対的関係

By yam1962 On 2017/05/15 · Add Comment
私は人なので関わりながら生きるのが宿命である。 空間に場所を与えられているのが事実である。 他を見る。その時、相対的に他を見定める。 認知して把握したり観察して他を固定的に分類する。 よって、存在を認識するとは定めて分かることで(自分と他と分けて)成り立つ(認知する)。 量子の世界で観測した時、本来の本当の姿は観測できず観測側の影響を受けて状態が固定化されるらしい。 本来の姿が固定化されてしか観測できないのは、存在の本質的現象ではないのか? 存在していると言う状態は、相対的な関係によって存在を示し成り立ってると思っている。それが、座標の意味で、だから位置エネルギーを持つのだ。 マクロの世界では、平均化された塊を人間が見た通りに認識しそれぞれの姿や現象を知覚し理解するが、ミクロの世界では境界があいまいであり個という感覚で認識する知の限界を感じる。 それが教えるのは、知の性質で、動物が認識できないものを人間が知によって分けていく(理解)ということが人間の知能だが、自己を認識するとは自己の基準を定めているから理解もハッキリする。 だから、知能とは自身を固定して観察する事によって、相対的に知る事だと分かる。 そして、知は認識をしたら更に好奇心が次の知を求めるということも、固定化ということが本来でなく常に知さえもその姿に影響を受け変化し続けるのが永遠の姿なのかもしれない。 知にとって固定化して理解する事が本質的だけど、本当はあまり重要な事でないのかもと思ってしまう。 結局、知は固定的な目線だけれど、それは過渡的な一時の状態であり、永遠に知の姿を平均化するとランダムな性質を示しているのではないのか。 量子論の性質は、人間が生きている時間軸的役割の本当の姿を示していて、それが分かっても生きるという目的に従いながら生活をするしかないという姿を教えてくれており、核の周りを一定の範囲で活動する電子のごとく、大きな空間でその座標を死守している事も無意味でないと見えてロマンを感じる。 そして、知が我々に勇気という恩恵を示し受け入れられると感じるのは、やはり、当たり前に明日は常に新しいはずだと示しているからだと信じる。
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詩 「彼方」

By yam1962 On 2017/01/10 · Add Comment
彼方 向こう側の岸にたどり着いたのは、今までで10人にも満たない。 たどり着いたものさえ満足してたどり着いてもいない。 こちら側から船を出航させ1つだけで向こう岸にたどり着いた。 途中で難破せずひき返さず、その生命を信じて進みきったのだ。 その方法が後に語り継がれている。出来るだけ身軽に、何の荷物ものせずただただ目指して行った。 私がなぜ彼方の事を知っているのだろうか? 私の手元になぜかその海図が届いたからで、古めかしいその図は消えかかりどうしようもなくわかりずらい。 だから、誰も欲しがらない。 誰も欲しがらないから、筋違いものの私に届いたのだと思っている。 そして、まだ出航の準備は整っていない。 十分な準備が必要だと分かっているだけだ。 彼方にたどり着く自信なんてない。ただ、信じるだけでいるしかない。 恐怖もあるけれど、恐怖は船を出さなくても同じだということくらいはわかっている。 私が船を出しても難破してしまうかもしれない。 けれど、不完全かもしれないが船の設計図は残せる。 私が出航した後、誰かがその図面を捨てようが拾おうが私の目的ではないようなので、気にはしていない。 ただただ、準備をしている。 私の役割を考えていた。 向こう岸に着くかどうか分からない船の図面を残す意味を。 たぶん、消え掛かっている達人達の海図が消えないようにあらためて焼き付けることに意味があるという事で、だから超えるための図面が届けられたのだ。 それにただ従えそうだから送り付けらてたということか。 大袈裟すぎると済ませられるのか、たどり着いたら考えてみよう。 一つだけ分かるのは、富とか幸福とか平和とか分かりやすい言葉と違う図面は、それを分かるものにしか届けられていないようであるということです。 悪魔は似たような図面を分かるものにしのばせるけれど、本当に受けとめられるものは、完全に見分けれるのです。当たり前に、進歩という最前線を。 だから、その最前線であるほど誰も到達していない分一人ぼっちの孤独をあじあう運命なのだ。 この詩の本当とは、孤独な声で称賛のためでないのはウソではないが、聞きとめてほしいという期待ももっていないのも事実である。 そして、ならばなぜこの「詩」を表明しているのかという疑問も理解できるけれど、それに応えるなら、生きているからだとしか表現できない。憎しむことから遠ざかるためだと感じているだけなのだ。
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taiga

By yam1962 On 2016/12/10 · Add Comment
大河 大河は、長い時間をかけて急激な流れで大きな岩を砕き下流へ進みゆっくりとした大河になった。一つ一つの川が一緒になって大きな河を築くに至った。当たり前のようだが、急激な流れが絶え間なく続くことによって、大きな河になった。 大きな河は、人々の農耕には欠かせない恵みになった。人々はその河に寄り添うことで大きな幸福と富を得た。 現代では、大河をコントロールできそうなくらいの力と知恵を人々は持っている。しかし、その河の雄大さを人々に制御できることは出来ない。 そして、大河を必要とする人々は、それを枯らしても生きられないと分かっている。 大河は、最後に大きな豊かな養分と供に海に流れ込んで終わる。その役割を。この大きな営みを止める事は人々にはできない。仮にそれを行えば、人も大きく変わらなければならない。 海に溶け込む時、清流のように綺麗でないドロドロとした蓄積を全ての流れとして全てを含んで先の海に返す。明日の誕生そして新たな連続への証しとして。 そして、ある人は、流れに存在の法則や永遠や生命を見るのだろう。そして、それを知る事はその人にとって、悲しみや嘆きとならず、委ねる平穏をみるのだろう。 いつも、大河は宇宙と同じで繰り返しを見せない、常に一瞬一瞬が新しい事を証明している。 一切の流れは永遠に一回限りだ。だから、今は儚いけれど永遠の姿なのだ。 全ては生きている原理の中にあり、自分が生まれた事の理由とかでは到達できないものを委ねあいながらそれに沿った永遠の一回限りの連鎖の姿である営みを、河の姿が教えてくれている。
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story 「青い男」

By yam1962 On 2016/09/18 · Add Comment
「青い男」 光によって男は目を覚ました。 目の前には海が広がっていた。 無垢の白い波に満ちた海だった。 そんな目覚めだった。 その男は、山に登ることも登ろうともしない男だった。 山男になって、高い山を目指すなんて目的を持っていないのだった。 ただ、村の人々と笑ってすごし、少しだけの贅沢をたまに楽しめばいいと思っていた。 村人との交流でみんなが見せる笑顔の中に幸福を感じていた。それ以外、必要に何かをほしがることもなかった。 ある時、村に事件が起きた。 若い村人の駆け落ちだった。山里の事件としては大きな出来事だった。 駆け落ちした男女は、男の友人だった。 二人が好きあっていることを知ってはいたが、結ばれる運命でないことも分かっていた。 大したことではないはずだった。若い男女が恋しただけなのだから。 結ばれないのは、二人の家の歴史だった。遠い古い昔の確執の中でお互いの家が憎みあっていたのだった。 二人が結ばれることを阻害する理由といえば、それだけだった。その記憶が風化しないのが不思議に思えるくらいの昔の出来事なのに。 実は男は二人の駆け落ちの計画を知らされていた。しかし、止めることもしなかったし、他者に話すこともしなかった。 二人が旅立って目的を達成して、幸福を手に入れてほしいと願いそれに納得していた。 二人が旅立った後、残った家族と村人はそのことでおかしな空気になっていった。 二人の家族と関係のない人々はその家のうわさをし、村でも数少ない娯楽である祭りよりも愉快な話のネタにするのだった。 時には、なんの根拠もない事まで本当であるようにささやかれるれるのだった。 村長さえも面白おかしく話す人々に同調する有り様だった。 そんな村人の豹変に、男は、イラダチ、嘆き、悲しい気持でいっぱいだった。 あんなにも仲の良かった村人のそれぞれが、本当はこんなにも人々を呪っていたのか、それぞれにとってどうでもいいことだからか、こんなにあざけ笑うのは。 男は、今回のことで村が変わってしまったのか?それとも、元々そうだったのかが分からなくなっていた。それぞれが、助け合い信じあい生きていると信じていたのに。 そんな失望からか、男は一人になりたかった。だから、近くで一番高い山に登ることにしたのだった。意味なく、ただ山頂に自分の足を向けたくなったのだ。 山に登ってみると、体力に自信があったのに思った以上に大変だった。 山道に不慣れも加わって、朝早く出発したのに、夕方になっても山頂にとどいていなかった。 あたりも暗くなりだしたので、そのあたりで一晩過ごすことにし眠りについた。 そして、光で目覚めたときその海を見たのだった。 海に見えたのは、雲海だった。 海の下に村はあるのだなと眺めていた。 ここから村を探しても雲にさえぎられてその姿を目にすることはできない。 ただただ、その先も同じ様な雲でその名のとおり海のように無垢に広がっているばかりだった。 今、男は村にいない。そして、どんな風に山から下りたかも記憶がない。 ただ、一人ぼっちで生きる自覚さえないというか、その自覚にも興味がない様だ。 そして、男の上には雲はみあたらずただただ静寂の青が広がっているばかりだった。
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average

By yam1962 On 2016/08/27 · Add Comment
何に苦しんでいるのかキチンと考えるべきだ。 人のせいにせず。 俺は俺の感情を遊んでいる。 だから、誰かを巻き添えにしたくない。 気持ちのいい失望は僕を優しくしてくれる。 失望は情熱を諦めた寛容で心地いい。 だが、何かの証明を忘れてはならない。 誰に対してでもないけれど、証明をして生きていくべきなんだ。 自分にか他にか分からんが心の底が、勝ち負けだけで解決できない何かの答えを人類社会だけの成功という嘘に合意できない答えの納得が個としての納得であるんだ。 それが生きているって感じだ。 本当の話ばかりしていたい。 だけど、重いだろう。以前はそれを語り何かを見てほしかった。 だけど、それは重い分訊けるものと訊けないものを分けてしまう。それでは元も子もない。 私の目的に叶わない。だから、笑っていることにしようと思っている。 そんな感じは、私自身にも安らぎをもたらしている。 本末転倒のまま押し付けていたら、その押しつけが幸福だという証明が必要となり頑なに陥ってしまう。 averageの中でしか何かの優しさを成就できない。 急激な明日の変更は大きな圧力となり津波ばかりをまねく。 それぞれと共にそれぞれの出来るだけの未来を進めることが最大にできる事の様だ。 そんな自分自身の声は自分の強さと正しさを納得という了解の安らぎに導いてくれている。 だから、それを信じている。 そんな視線を自分が持っていることで大概の事を優しく見れるようになった。 そして、それは公平でありたいという漠然としたただの命だってことを信じれる幸福に達した。 私は文学的心や秩序の葛藤を芸術で表現することさえ、平成のオタク文化的脆弱さを感じる。 多分、自分の不都合をcowboyの様に若さと力で覆すってことさえ馬鹿らしいって理解するアジアンの気質があるから屁理屈や言葉で逃げていると思う。 私は、科学的職業(エンジニア)で食べていたから哲学者と違い、自然法則の中で我々は生きているって自覚を持っている。 だから、簡単に言えば、正しいってだけで不幸ばかりなら、何かの矛盾を抱え込んでいると思う。自然法則から排除されていると感じる。 私達の目的は幸福に生きるである。正しいってだけの横行が我々を不幸にするならその正しさはニセモノだ。 目的を忘れてはならない。我々が幸福になるっていう導きが正しく。正しいっていう理由で我々が不幸ならニセモノである。 自然法則から見捨てられっているってことだよ。 素直にシンプルに幸せって思えるものが、正しい幸福だと思う
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story 「水平線の逃げ水」

By yam1962 On 2016/06/23 · Add Comment
「水平線の逃げ水」 街に赤い光が見えた。 なんだろう?花火だろうか? そんな光が見えたのだった。 そして、煙も見えていた。 街が燃えている。火事のようだ。 そのうち火事はその街を消してしまうほど火柱をたてている。 知らない遠くの街が燃え尽きようとしているのだろうか? 私は、ある国境に近い島に来ていた。 そして、あつい日差しの海岸を歩いていた。 海の水平線を眺めると、その風景がうかんで見えていたのだった。 蜃気楼だろうか? それならばめずらしいと思って眺めていてその風景をみていたのだった。 ふと不安になって私のいる島の方を振り返った。 島は、優雅に風を受けて木々をゆらしていた。 島は、いつもとかわらずいつものゆっくりとした時間をすごしていた。 あの燃えていた街は幻覚だったのか? そう思い、もう一度水平線に目をやった。 向こうに見えた赤い光の街はもう見えなかった。 蜃気楼だったのだろうか? 私の錯覚だったのだろうか? 強烈な記憶とおぼろげな映像は、私の中の幻覚だったのだろうか? 街は燃え尽きてしまって炎の光が見えてないだけだろうか? そんな事を考えている空間とは別に、体は白日夢の中にいるように優雅な風にあたり砂浜のさざ波を遊びながら歩いている。それが現実だった。 蜃気楼に仮に切実があるとしたら、単なる映像だけだった。 しかしその後は、その前よりさざ波の優雅な音色より、砂浜が軽く痛く白く目に入る気がした。
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人生と意味

By yam1962 On 2016/04/03 · Add Comment
意味 人生に意味はあるのか?その答えは貴方次第だ。 意味とは自分の意識から見た理由のようなものだ。 真理は理論と同じで覆らない事実って事である。 宗教者は、神秘的な命という目線で宇宙の事実(真理)を悟ろうとするし、学問から真理をさがすには、証明としてこれが絶対に正しいと理論で説明する事が求められる。 普通の人は、意味を自分の正義とか常識って歴然としないものとごっちゃにし勘違いするような傾向にあると思う。 あなたの人生の真理または絶対とは、通常、そして人間社会内では、貴方にとっての意味ってことになるのです。 真理及び理論は全く別のところにあるのです。 ですから、人生に意味があるのかを真理に向かって問うても答えは出ません。 自分がどのように生きていくかってことが、真理と関係なく人生の意味で、結局、自分自身で目的を決めて生きるということが人生の意味です。 人は、自分と真理を分けて考える必要があると思います。 結局、生きる目標や目的が生きる意味であり、それがなく生きているなら、お釈迦様だって返す言葉を持たないでしょう。 馬耳東風 自分の命の解答は、結局、自分で見つけるということです。 そして、真理とは人間社会のためにだけにあるわけではないのは説明したとおりだけど、冒険者というものはその未知なる風景に挑む人を指すのです。
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純粋に

By yam1962 On 2016/03/25 · Add Comment
私は、言い過ぎでないか?言いたい事が言えてるか?って目線でここの記述を再読みしている。 記述より時間が経てば経つほど客観的になってる事さえ実験しています。 時間が経てば他人の記述のように自分の文章を眺められます。そして、お前(私)が何を表現したいかってのが、できるだけ客観的に分かるのです。 そんな、遊びにもにた反復をなぜ私はするのか?自画自賛か? 本当は、多分自分の言葉に酔いたいってのもあるけれど、それは自分の発言チェックくらいの事柄で(自分らしくない発言は許されないので)、何を目的にしているかを確認しているのです。私の目的を私自身の記述が私に教えているのです。 それぞれの発言や論証の流れで、私が何を信じ生きる目標はどこかを、純粋に過去の記述が伝えてくれています。 ブログっていい道具だと思います。        
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