色々な人に出会って、もっと私情を殺さねば感じている。そんな状況で、自立的でいるにはクールな自分が必要だと痛感している。もっともっと大人?になるって事が必要なのだろうか?
もう一段大人になるには、情を捨てて行くって事になる。だけど、打算的に情を捨て去って行くってことで、世界は矛盾を引き起こしているのではないか?強ければふみたおしていいというように。
一般的に大人になるって、情を殺して他人なんて知ったこっちゃないって感じがあるようだ。正しい、あなたが他者からそうされる覚悟があるなら。自分の不幸を自分のせいと思う覚悟があるなら。イイトコドリはできないのだ。自分の罪は自分にあり、そして、他人の罪なんてひっかぶる必要なんてない。
だけど、そんな人には滅多に会った事がない。自分の罪を人の落ち度や冷たい社会と言い放ち、自分を検証しない。できるだけ公正に。
そして、情を捨てた自覚がなくて、他者には情を要求する。本来は、フィフティーフィフティーのはずなのに、追い込まれると他人には優しさを求める。こんな事ばかりではないのか?そして、多分ずっと昔から。
自分の責任という意味において、魚やトカゲなどにはできている。喰われたら自分の責任という事において。そして、理屈を持たないという公正さにおいて。
私は情を大切にする。情があることが魚やトカゲと違うって事だから。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」(夏目漱石)
どうせ住みにくい世の中だ、情を選ぶ(優先度を最重要に)ことにするのも、何か面白い。
そんな中で、自身の罪を公正に自覚していたい。謙虚過ぎず、我がまま過ぎず。貸し借りはキチンと清算して行きたい。
今は多少の貸しを利子なしで貸しておきたい。今まで、借りばかりだったから。