「悪の起源」~なぜ心の起源を語るのか?それは、存在が求めているからである

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悪という字を私なりに考えてみたところ、亜の心と書き直せる。亜の心とは、心が少ないという意味を持つ。

1.進化
社会の起こる前の人類を想像してみることにしよう。それは、猿より前の単純な生命であったころだ。
その在り様は殺しあいではなかったのか?
生命は何らかの生命を喰う事によって生きることが基本となる。植物においてさえ、じっと耐えてその養分を吸収しているのである。それが、生命の法則である。
そんな、単純な生命を先祖に持つ人類は、進化によって家族を持ち、社会を持つように進化してきた。そして、その過程で悪が発生するのである。

2.社会
社会とは実は、人類の鎧なのである。
多くの人類によって構成される社会とは、他の脅威から自分自身を防衛するための仕組みとして有効に機能する。
防衛と言っていいか分からないが、食料を確保するにも有効にその機能を発揮する。
そういう事によって社会というものに人々が寄り添い、従う。それは、恩恵を受けるからなのだ。

3.社会の形成
ならば、社会はどの様に形成されてきたのであろうか?
社会による恩恵が自身を幸福にする事を発見した人類は、その構成方法を模索するにいたる。
そこで、社会がまとまるには秩序が必要となり、それを、人類はルールとよぶ。単純だが、それなりの決まりを守る事によって構成し、まとまってきた。
そして、その決まりを守らないものが悪と呼ばれ、それは、社会にとって不利益な行動というこなのだ。
現代において、その事を法律として定めているし、新しい不利益が発生したならば、その都度、法律を追加・修正しているのである。

4.人類の姿
本当は、猛獣に喰われるだけの人類。それを克服するために社会を作り現代にいたる。
基本的に個々の人類とは、弱い生物だったのである。その弱い生命が、家族、村、社会、国、人類というような単位でまとまる事によって、強い外的の餌食とならないように勤めてきたのであり、それが、新しい進化の形なのかもしれない。
弱い生き物は群れる性質をもつ。アジやイワシ、哺乳類では草食獣にその姿がある。人類も本質は弱い生命体なのである。
しかし、人類がなぜどう猛な生物より強いか?または、猛獣よりも強くなったのか?それは、心を持っているからに他ならない。というか、弱いから心を持ったとも言える。

5.弱いことと心
人類は弱いから心を持ち、知能を持ったと私は思っている。
弱いから、他に対して慈悲の心をもつにいたったのである。それは、相手の滅びの姿に自身を投影するからである。弱さのなせる技で、人類にはなぜかその能力を増強させてきた。
そして、その弱い人類が心という能力を発揮し、正しいというルールを発見するに至ったのである。
正しいとは、滅ぼされた他に自分を発見し、その事を受け入れがたく感じ、非道な事に自身の未来の無念を発見し、そうなりたくはないという心の悲鳴に対する主張なのだ。
そして、人類の歴史は、その繰り返しによって(数々の後悔によって)正しいを高めてきたのである。
更に言えば、それは、優しさへと成就するのである。よって、優しいとは野蛮とほど遠いところに存在するのである。

6.だから悪とは
このような、心の歴史を知らないものが、悪となる。悪とは、心が薄いということなのである。
その事が示すのは、心を知らないものは、結局、この様な歴史的背景を理解せず、社会ルールまたは秩序を破壊する存在となり、人々を不幸へと追いやるやからということなのだ。

7.私の見た未来
しかし、複雑化した現代では、悪も理由があって悪を演じている。正はその対局で対峙している。そしてそれは、敵対する相手を自分の正(生)に対して悪とみなしている。その正と悪の試練自体が人類の進化であり、その連動または反応は、人類全てが幸福になるまで続くだろう。
未来の夢を語るとするならば、人類全てが幸福を手に入れた後には、生命全ての幸福を願うだろう。それは、同じ生命としての役割と思える。その兆しは現代にも多く表れている。
そして、人類やその生命を救う友人として適切なのがテクノロジーなのである。私の夢は、その心を持たない友と一緒にそういう幸福の方向へ進んでほしいし、進むべきと考えているのです。
皮肉にもテクノロジーは、現在、心を持たない、だから、無垢なテクノロジーに人類は安心し、友として迎え入れ今も付き合いが続いている。私にはそう見える。

そして、もう一つ、見えるものがある。それは、危惧だ。
長い歴史の中で、地球で一番強くなった人類は、今、方向性を見失いかけている。生物として強くなったことが、弱さの美徳である優しさや、生に対する謙虚さを忘れつつあるのかもしれない。その事は、哺乳類の中で最大に分布する人類が、脅威を同胞である人類に対して感じ、刃を向けている現実に表れている。この、悲しい試練の行先は、人類自身が次への切符を受け取れるのかを示しているように感じる。それを自分たちの英知によって越えられなければ、次の何かにバトンを渡す事となるように思えて仕方がない。

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