50才の感謝。区切りを付ける意味でも

IMG_2456

何かの気まぐれか、運命なのか、全ての偶然の中で僕はこの世に誕生した。それは、拒否権を持つことは許されず、あるいは合意した記憶を消す事が条件だったのか? 今は知る由もない。

生まれた僕には、母と父が与えられていた。生まれた後の最初の記憶は、玉ねぎの匂いのする母のエプロンだった。自分の意思は無く、ただそのエプロンをした人の所に、外で遊んだ後に疑問もなく帰る事が当然なのだった。その母と父と言う人から叱られたりたたかれたりした。恐怖は無かった。死ぬなんて知らなかった。ただ、痛いのは嫌だった。

僕は恋をした。小学校3年生だった。初恋と今は自覚している。
ぼくは、子供だったけれど、この恋の決着が、僕の好きをどのように昇華させていいのか分からず悩んだ。結婚の意味も、愛の目的も分からない歳だった。ただ、切実に一人の女の子を好きだった。

そろそろ中学校に入るくらいの頃だった。私の幼少期は粗暴だったけれど、そろそろ喧嘩が怖くなりだした。それは、父の教えだった。「男は人前で泣いてはならぬ」だった。僕の恐怖は、喧嘩で負ける事でなく、負けて泣くみじめさった。だから、喧嘩ですべてのプライドを捨てる理由が分からなかった。だから、喧嘩しない人になって行った。つまらないイザコザで、喧嘩して泣く事の理由にはならなかった。負けて泣くって事が最悪であった。それは死に等しかった。

僕は高校に入った。この頃から、粗暴でない普通の少年だった。ある日、仲の良い友人とちょっとした経緯で喧嘩になった。胸ぐらをつかみ一触即発だったが、体格的に自分の方が断然優位だった事で、負ける事はないのだった。だから、自分の方から喧嘩を止めたのだった。必ず勝つ喧嘩は、喧嘩とは思えないのだった。彼が憐れだったわけではない。自分の喧嘩に対する正当性に疑問を感じたからだった。
次の日、それを見ていたクラスの不良から、何であいつをブチのめさなかったのか?と問われた。僕は、勝つのが分かっていたからと答えた。彼は、不思議そうに僕を眺めていたが、何かを感じたようだった。多分、不良の彼と喧嘩したら僕はブチのめされるだろう。そして、その後、卒業するまで、彼はことある毎に僕に喧嘩をふっかけてきた。が、僕はそれを買うことはなかった。だって、勝つ喧嘩と同じように、負ける喧嘩もしたくなかったから。そして、不良の彼も喧嘩をふっかけるが、僕をぶちのめす事は無かった。多分、僕の強さと弱さを自分のことのように感じたからだったと思う。

大学に入った。大学は楽しかった。自分のテーマに向き合うことができたから。それだけの時間の余裕を僕に提供してくれた。ただ、金は無かった。多分、友人の中で一番金に不自由していたと思う。そんな大学生活の中で、恋をした。本当の恋愛だった。彼女は結婚を望んだ。彼女の事は大好きだったが、社会を知らなかった僕は、彼女を幸せにする自信が無かった。結局、別れることになった。彼女との別れに絶望していた僕は、その頃流行っていた佐野元春をよく聞いていた。
その中の歌詞で「生活といううすのろを乗り越えて」という言葉があった。僕はその言葉が示すものに、負けたのだと自覚するばかりだった。

そして社会人になった。
一流と言われる会社の関連企業に合格したのは、当然ではなく幸運だった。だから、同僚に負けない様に働いた。地方から、東京に出て、自分なりに必死に頑張った。それは、仕事もそうだが、それ以外の文化的というか首都東京という夢みたいな訳も分からないものに挑戦した時代だった。
大きな会社は僕に、組織の中で役割を果たすことを教えてくれた。今思えば、未熟で多くの人に迷惑をかけたが、ごまかしの無い真剣さは、誰にも後ろ指指されるものでは無かったと思う。ただ、その頃の大きな組織では異端児だったし、煙たがられてた。だが現代であれば違ったと思う。中途半端な仕事をする余裕は、今は無いから。だから、僕の方が先を行っていた。結局、その会社は14年務めて辞めてしまった。
東京にいる頃、付き合っていた彼女が、僕に教えてくれた事がある。「あなたは分析力に長けている」だった。その言葉はその後の僕に大きな影響を与えた。それまで、多くの苦悩をした根元がそれだった。フラットに状況を分析し、その本質を理解してしまう事が僕の苦悩の種なのだった 。いつも、女性は僕が気付かない事を教えてくれる。それは、今でも、そして、幸運な事だと思う。

福岡に戻り、数年して、結婚した。会社と飲み屋の往復に終止符を打ちたかった。愛する人の為に仕事や生活をしたい。誰かを守る為に社会と関わりたい。「生活といううすのろ」とやっと戦えるくらいになっていた。
今思えば、それが男なのだと思う。家族、友人、地域、社会、国家、人類、最後には全て。そんな存在を守る事が男なんだと思っている。
子供だった僕にそんな人生観を教えてくれたのは、妻だった。彼女は、真剣に逃げることなく、僕に向かって来た。喧嘩も散々した。だけど、妻は逃げなかった、一歩も引かなかった。僕も逃げなかった。そして分かった、教えてくれた。男は、何でもいい、守るという事がカッコいいって事を。こんな生活感が、今、私は保守主義者である。と言える出発点であることは、間違いない。
妻にいつも感謝している。子供だった僕を本物の男になる道筋を教えてくれて。
自画自賛だが、彼女を妻とした自身に間違いが無く、その選択に幸運を感じる。ありがとう嫁!
今の僕は、半分は貴方のおかげなのです。そんな事が、恋から愛に昇華しているのだと自覚するばかりなのです。

40くらいからは、今までの人生で疑問に感じた事を展開する時代となった。他者の幸福が僕の生きる糧なんだと理解しているけれど、人とは生きる為にいろいろな都合がある。自分の負けや弱さを補填しなければならない。僕は、その全てに答えを示したい。が、そんなに簡単ではない。個々の幸福を実現する事は大変なのだ。僕は、性善説支持者なのだけれど、そう思えないことばかり。上から、正義を語っても通じない。それが、人であり我々の実体なのだ。
50になった僕は、隣人の笑顔に幸福を見て自分のものとする。だけど、逆に、皆のノイズも見えてくる。隣人の笑顔が、僕の生きる糧なのに。

それが、人生であり生命の性とも思えるけれど。

僕は、みんなが好きといつも自覚させられる。諦めたいと思っても、結局、そういう風に行動している。そして、出来るだけ幸福でいて欲しい。ありがとう、関わってくれた人々。

結局、僕に関わってくれた心が、本当が、僕の肉になり明日を生きる糧となっている。
まったく立派でない僕に、多くの真心や本気という栄養をくれてありがとう。
あなた方に頂いた養分は、僕なりに誰かの為に、肥料となれば本望なのです。

僕の言葉が落ち葉となって
僕の肉が腐り全てに溶け込んで
僕の骨が証となって
地や海と全てと一緒になって
そんな事を教えれくれた全てが、愛おしい。

sorry 2013.8.9

Share →

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です