「形と悟り」

形には意味がある。

人間が認知できる三角や四角または六角形などの形分類は、我々の限界を示している。
それは、形認識が、知能の限界をうつす指標だと主張させていただく。

人を越えた宇宙とは上下が無く無限的存在である。形を示していない。
それは、我々の認識力を越えている存在だからだろう。

人は、立って生きているので、その潜在思想は、上下左右の認識であるけれど、その認識とは宇宙の在り様と異なる。宇宙は球のように、全てに縦横なく拡がっているだけなのだから。

地球は、存在として自転しているので上と下がある事になっているが、それを意識し図にしたのは人だ。何故なら、自分の視点で認識するからである。特に北半球の地球人の図だ。

地球の自転の傾き23.4°は太陽からみた自転のズレを示すものだが、宇宙は、縦横なんて関係なく存在している。縦横とは人がその様に当てはめているだけで、二次元のグラフ座標のように、太陽との関係でそのように地球との関係を相対的に示しているってだけだ。
それは、人が地球の重力に従って直立歩行しているから上下を感じているからであろう。
上下の認識による自分目線の認識って事が理解として必要だから縦横の座標的認識によって理解し、それを共有するために分かりやすく説明して示したって事だ。上下的に説明しているから、みんなは理解できるし、発見した本人もそのような目線で23.4°を見つけたはずだ。

その認識は無駄ではない。人間の発展に寄与するものだ。
が、それを理解した上で差し引いた時、すべての理解者になるのだ。

形の本性は、結局、右肩上がりを含む(必ず未来の発展を)が、二次元の円、三次元での球はそうではない。全てのバランス均衡の形で丸を保っている。
だから、球とは我々にとって、三次元認識の完全系なのである。

仏教的悟りとは、自分視点を差し引いて達する感覚であり、丸のようにバランスの中で均衡を理解した姿であるはずなのだ。
人間として、生や社会や感情などをを差し引いた後に残る真理を究極的に理解するのが悟りで、それは、球に達しったて事である。
真理の姿を直視できることであり、その悟り人は球を理解するだろう。
形の姿の球のように、理解に達したってことであろう。

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