私は人なので関わりながら生きるのが宿命である。
空間に場所を与えられているのが事実である。

他を見る。その時、相対的に他を見定める。
認知して把握したり観察して他を固定的に分類する。

よって、存在を認識するとは定めて分かることで(自分と他と分けて)成り立つ(認知する)。

量子の世界で観測した時、本来の本当の姿は観測できず観測側の影響を受けて状態が固定化されるらしい。
本来の姿が固定化されてしか観測できないのは、存在の本質的現象ではないのか?
存在していると言う状態は、相対的な関係によって存在を示し成り立ってると思っている。それが、座標の意味で、だから位置エネルギーを持つのだ。

マクロの世界では、平均化された塊を人間が見た通りに認識しそれぞれの姿や現象を知覚し理解するが、ミクロの世界では境界があいまいであり個という感覚で認識する知の限界を感じる。
それが教えるのは、知の性質で、動物が認識できないものを人間が知によって分けていく(理解)ということが人間の知能だが、自己を認識するとは自己の基準を定めているから理解もハッキリする。
だから、知能とは自身を固定して観察する事によって、相対的に知る事だと分かる。

そして、知は認識をしたら更に好奇心が次の知を求めるということも、固定化ということが本来でなく常に知さえもその姿に影響を受け変化し続けるのが永遠の姿なのかもしれない。
知にとって固定化して理解する事が本質的だけど、本当はあまり重要な事でないのかもと思ってしまう。
結局、知は固定的な目線だけれど、それは過渡的な一時の状態であり、永遠に知の姿を平均化するとランダムな性質を示しているのではないのか。
量子論の性質は、人間が生きている時間軸的役割の本当の姿を示していて、それが分かっても生きるという目的に従いながら生活をするしかないという姿を教えてくれており、核の周りを一定の範囲で活動する電子のごとく、大きな空間でその座標を死守している事も無意味でないと見えてロマンを感じる。

そして、知が我々に勇気という恩恵を示し受け入れられると感じるのは、やはり、当たり前に明日は常に新しいはずだと示しているからだと信じる。

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