何に苦しんでいるのかキチンと考えるべきだ。
人のせいにせず。
俺は俺の感情を遊んでいる。
だから、誰かを巻き添えにしたくない。
気持ちのいい失望は僕を優しくしてくれる。
失望は情熱を諦めた寛容で心地いい。
だが、何かの証明を忘れてはならない。
誰に対してでもないけれど、証明をして生きていくべきなんだ。
自分にか他にか分からんが心の底が、勝ち負けだけで解決できない何かの答えを人類社会だけの成功という嘘に合意できない答えの納得が個としての納得であるんだ。
それが生きているって感じだ。
本当の話ばかりしていたい。
だけど、重いだろう。以前はそれを語り何かを見てほしかった。
だけど、それは重い分訊けるものと訊けないものを分けてしまう。それでは元も子もない。
私の目的に叶わない。だから、笑っていることにしようと思っている。
そんな感じは、私自身にも安らぎをもたらしている。
本末転倒のまま押し付けていたら、その押しつけが幸福だという証明が必要となり頑なに陥ってしまう。
averageの中でしか何かの優しさを成就できない。
急激な明日の変更は大きな圧力となり津波ばかりをまねく。
それぞれと共にそれぞれの出来るだけの未来を進めることが最大にできる事の様だ。
そんな自分自身の声は自分の強さと正しさを納得という了解の安らぎに導いてくれている。
だから、それを信じている。
そんな視線を自分が持っていることで大概の事を優しく見れるようになった。
そして、それは公平でありたいという漠然としたただの命だってことを信じれる幸福に達した。
私は文学的心や秩序の葛藤を芸術で表現することさえ、平成のオタク文化的脆弱さを感じる。
多分、自分の不都合をcowboyの様に若さと力で覆すってことさえ馬鹿らしいって理解するアジアンの気質があるから屁理屈や言葉で逃げていると思う。
私は、科学的職業(エンジニア)で食べていたから哲学者と違い、自然法則の中で我々は生きているって自覚を持っている。
だから、簡単に言えば、正しいってだけで不幸ばかりなら、何かの矛盾を抱え込んでいると思う。自然法則から排除されていると感じる。
私達の目的は幸福に生きるである。正しいってだけの横行が我々を不幸にするならその正しさはニセモノだ。
目的を忘れてはならない。我々が幸福になるっていう導きが正しく。正しいっていう理由で我々が不幸ならニセモノである。
自然法則から見捨てられっているってことだよ。
素直にシンプルに幸せって思えるものが、正しい幸福だと思う