星はなぜ球面体なのだろうか?

我々の知る最大の塊を星と思えば、そこに全ての真理がかくされてやしないか?

二次元の円についても、割り切るには謎の多い形と思える。

玉は、三次元では球面体で、二次元では円ということなのである。

どの方面からとらえても、その形に同じものを映し出すのが玉なのだ。

それは、自分の心理と関係なく、その在りようをいつも一定に保ち、ブレのない形ということと思える。

 

人は、大きな脳を持ち、体感として胸のあたりに心を持つ。

その心によって、同じ風景であってもその時々で見え方が異なる。

それに反し、玉はどこから見ても玉なのである。その姿をどの方向から見ても変化がない。

玉は、玉であり、どんな状況でもその主体性の形を変えない。

私はそこに真理の形をみるのです。どんな角度であっても一定の姿をさらす。

それを、真理の形と思うのは当然の結論ではなかろうか?

 

私は、人というものに絶望していた。本当に尊敬できるような人は見たことが無いと思っていた。

しかし、今日、本当の人を見る事ができた。

その方は、玉のような方だった。生き方に一切の妥協もなく、一切の迎合もない。

多分、本当にそうでないかもしれないが、ものすごくそういう事に近似している方なのだ。

 

その方を見たとき、社会生活にマヒしている現代人に一石を投じる事のできるパワーが確実にあった。

その方の生きザマは、深くは知らないが、変人扱いされた時期も長かったと思われる。

私も変人の端くれと自負しているが、その方はその生き方を成就されていた。

私より、何歩も先を走られている。絶望している私に、凄い感動をもたらした。

 

今、貴方に玉をみます。完成された生きザマに本当の玉の姿を私は見たのです。

愛、優しき心、真心、純真を持ちつつ、他人に迎合しない強さ。

そんな姿が、私に光をもたらしてくれた。

人は、人を評価する時にそのすべてをさらけ出す。

その中に、その人の未熟さ、その人の嘆き、その人の傷つき全てがあらわになる。

しかし、その方は、真っ当な目線で、真っ当な評価を、自分のプライドや見栄と関係の無い所で

愛を持って語っておられた。

私は、人の評価をするのが本当は大嫌いなのです。

特に、落ち度を並べ立てる事は自分の弱さの表れと考えているのです。

しかし、社会生活の中、たまらなくなってそのような言葉を吐いてしまいます。

本当に情けない一瞬です。

 

いつか、あの方のような境地に到達したい。そんな風に思える方でした。

私の知る人で、一番「玉」に近い方なのです。

 

sorry 2012.09.07

 

 

 

 

 

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