「隣の男」

その男は、まだ30には届かないくらいの齢だった。
帰っても何もないので、会社帰りによく足を運ぶ一杯飲みやに寄ることにした。
まだ夜の7時というのに、5,6席の店は4,5人の常連客で盛り上がっていた。
ちょっとゆずってもらって、男も座ることができた。男も顔なじみになりつつあった。

座るなり、「ヨウ!」と馴れ馴れしい挨拶で、40なかばの隣の男が話しかけてきた。
「君に話したい話があるんだ。この話は君にしか分かってもらえないはずなんだ。」
男は何の話だろう?と思いながら、ビンビールを飲みつつ隣の男の話を聞くことにした。

「実はネエ、〇〇という会社に勤める前は、自衛官だったのだよ。
自衛官をわけあって退官して今の会社に入ったのだけれど、
最後に寮を出る時に、犬が鳴いていたんだよ。ワンワンとね。」
男は、隣の男が何の話しをしたいのか理解できなかったので、
「その犬の話ですか?」と聞き返した。
「そうなんだ、その犬の話なんだ。」

男はビールを飲みながら、隣の男の話が始まるのを待つことにした。
「そうなんだ、君にしか分かってもらえないんだ。
僕が、寮を後にしている時に、犬が鳴いていたんだ。悲しそうに。」
「何で悲しそうなに聞こえるのですか?その犬に何か思い入れでもあるのですか?」
「そうなんだ、悲しそうにワンワンと」

隣の男が、自衛官から転職して名の通った会社に勤めていたことは、ここで何度も聞いていた。
その会社は一流企業なのだが、どうも、隣の男は頭が悪そうに見えていた。
その店は、小さな目立たないものだったが、一流紙のジャーナリストや国連の勤め人や芸能プロの経営者などが常連で、文化的で自由な空気があり、面白い話が聞ける店だった。
しかし、隣の男は、30前の男にも分かるほど鈍感な男だった。そういう事から、常連から煙たがられているのだった。

「なんで、悲しいのでしょう?」
「そうなんだ、悲しそうにワンワンと」
男は、何度も同じ事をいうので、酔っぱらっているのだとおもいつつ、その先の続きを聞こうとした。
しかし、また同じように
君にしか分かってもらえないんだ、その犬は悲しそうにワンワンと鳴くんだ」
それを繰り返すばかりだった。
しかし、男は隣の男が酔っぱらったとはいえ、何か話があるのだろうと、その話の先が見えるように
何度も質問をしたのだった。

あまりも長々と大声で隣の男がくり返すので、とうとう、
「うるさい、もう止めろ」と常連の一人が、滅多に出さない大きな声でどなったのだった。
それは、隣の男への忠告だった。
男はどんな酔っぱらいが来店しても、必ず話を聞き、情を込めて語り合う事を常としていることを、常連客で知らないものはなかった。
その純真な真心に癒されるものや、擦れてていない男に嫉妬するものもいるほどだった。

しかし、隣の男の精神構造を理解しているのかそうでないのか分からないが、
男は、その先の話が見えるように、また心を込めて質問したのだった。
そして、隣の男もワンフレーズを繰り返すのだった。
そうなんだ、君にしか分かってもらえないんだ、その犬は悲しそうにワンワンと鳴くんだ」
そして、その言葉の中から、ヒントを考えては、男は隣の男に質問するのだった。
「それは、あなたにとって何か意味があったのですか?」
またまた、質問を
「それは、犬を哀れんだあなたに何か問題でもあったのですか?」
「それは、犬の哀れさに何か思い出でも投影したのですか?」
「犬の暖かみが辛かったのですか?」
「ワンワンという声に無常をみたのですか?」
「犬の方が気楽と感じたのですか?」
「自分の残した同僚とダブったのですか?」
「犬に自分を見たのですか?」
・・・
男はありとあらゆる違う質問を心を込めてしたのだった。
そのうち、隣の男の声は疲れたのか小さくなっていった。
しかし、隣の男のその繰り返しに合わせて、男は違う質問を心を込めてしたのだったが
隣の男はとうとう繰り返しをやめて、素っ気なく勘定を済ませて帰ってしまったのだった。

少し後のある日、いつもの時刻に男はその店に顔を出した。
常連の一人が「あいつ、来なくなったな」と話しかけてきた。
隣の男が、あのとき以来顔を出さなくなっていたのである。

いつも通り、男はビンビールを飲みながら、応えたのだった。
「〇〇さんは、いい人ですよ」

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