正しい声
僕には、正しい声が聞こえてきていた。
正しい声は、幸福の提案者だった。
最後に悲鳴を上げる現実でさえ、正しい声は意味があると語っていた。
そんな若かった僕に、次の正しい声が聞こえてきた。
「明日のある者と、ないものでは正しさが異なる」
正しい声の試練の声だった。
明日がないものに希望があるのだろうか?
何か始める理由はあるのだろうか?
それとも、始めるとかそんなことは小さいことなのだろうか?
僕が生きてきた正しさに、大きく疑問を投げかけてきた。
僕は自問自答せざるを得なかった。
明日があるから、正しさを求めたのだろうか?
明日がなければ、正しいなんてないのだろうか?
生命の基本は、明日を生きる為にその行動をする。
しかし、明日のない我が身に、何の目的を定める事が出来る?
明日があるから希望もある、だけど、明日を使い果たした僕に正しさは何を求めるのだろうか?
ちょっと、筋違いの僕は、子供や孫に自分の未来の展望を彼らに投影する事に、身勝手さを感じる。
最後に滅びるまで、自分の真実をこの世界に投射していくべき。それならば納得する。
そんな事が、自分の生きたことなのだと、本当の目的ではないが後輩にその輪郭を見せなければならない。
しかし、滅びる覚悟と悲惨を受け入れる準備をしている自分に、明日が見えない。
「滅びるものは滅びる」、それは当たり前の摂理なのだ。それが、人類の運命であっても。
そんな事を受け入れる自分に、小賢しい世界観を語っても無意味で、若い人と違い明日の回答をひねり出す事はできない。
全ての存在は、その連動の役割を果たした時、次と入れ替わる。
もしかしたら、小賢しい正しさの運動もその役割を果たした切ない役割なのかもしれない。
永遠に人類が反映すべきというテーマは、人類にとって当然でも、宇宙にとっては気にもかけないことのなのだ。
しかし、そんな壮大な受け入れ態勢の自分の心境に、気に食わない感じがある。
だから、明日が無いとしても、明日を見ていたい。そんな、大きな反抗をしたいと思っている。
実は、そんな事を、宇宙というか存在が求めているのではなかろうか。
人とは、そんな突破を本能として与えられた生き物ではなかろうか?
それとも、その過渡的な存在ではないのだろうか?
それに回答が必要ならば、敢えて答えよう。
自分にとって居心地のよい結論を追求すべきなのだ。
居心地のよいとは、本能がその方向へと導いている。
そして、その方向に進む事が本能の本来の方向ではないのか?本能は存在の意志と連動しているのかも。
だから、我々は生かされているのかもしれない。
それは、結局、存在が求めているという事ではないのか!
もし、その方向が違ったとしても、人類という単位では間違っていないはずなのだ。
そして、存在の意志に対して間違っていても、人類なのだからそれしかできないのだが。
存在の意志に沿って、役割を演じている、そいう事が事実なのではないか。
言い分として、人類が100%支持するリーダーが存在したとしても、それが最終的な成功ではなく、その外に存在という本当の正しさがあるのだと理解するべきなのだ。
分かりやすく言えば、まだ出来ていない人類全ての合意を仮にかなえても、宇宙にとっては些細なことなのだ。
そんな謙虚な感覚が、人の合理性というミスを修正し、正しい方向に導いてくれるはずなのだ。
何でこんな事を長々と書くかというと、宇宙(存在)とは、混沌(カオス)でなりったっている訳でなく、秩序(コスモス)で成り立っていると感じるし、科学の発展や生物の進化には、必ず秩序(コスモス)に沿った構成によると感じ、そして、実際に、日々実証されているからなのだ。
我々が混沌と思うものを、じっと眺めて観察したならば、ニュートンのリンゴのような秩序があるのです。
私のいう存在の意志とは、全ての秩序の事なのです。
そうでなければ、物理学者が宇宙の構成を解き明かすことは1つとしてできたはずがないのです。
そして、人とはそのような秩序(法則や原理)をなぜか発見し利用する事のできる生命なのです。
そして、それさえも秩序のなせるわざ(存在の意志にそったもの)と体感的に感じるのです。
2012.11.5 sorry