3.3 意識と理論

3.3.1自己という考え方について

人は生れいつか墓に入る。
生まれた瞬間から滅びを受け入れて明日を求めていく。
事実として若い頃に明日を考える事はファンタジーだろう。しかし、年寄りは自分の滅びが近寄ってくる結論がせまるばかりになる。
生きる事と滅びる事はセットで、その中で自己の確信の中で今を生きる。
現代人の自覚では、自己とは何年の何月何日に生まれた事が始まりと思っているだろう? だけれど、生まれるには両親が必要で、女と男によって、この世に生を授かっていて、それは、他の生物より過去の歴史の中でこの世に送り出された背景をもつ。
生まれた瞬間から、国籍が決められ何々村のなにがしかの子供という立場を背負ってこの世と向き合う。この事実は、人とは人の歴史の流れに組み込まれて誕生するという事を抱え込んでいるということになる。そして、その流れの中で現実の社会と関わりながら人格を形成しながら人という形を作っていく。
この事実って何なのだろうか? 原始人で貴方が生まれたら力を必要とするだろう、現代人の貴方は原始人と全く同じ肉体を今もっていても、力と異なる社会的人間として未来を探すだろう。
これは、自己って思っている貴方は、勝手に生まれてきたわけでなく、全ての流れの中の経緯によって今を授かっているという事だ。
個人主義とか私の権利という時には、この事実またはこの経緯の中で主張する事が求められ、主張はしない主張でさえ、人間の歴史の流れの中で許されているのだ。
私が何でたらたらとこの様なあたりまえの事実をここで述べるか? その目的は、自己とか個人とかいくら叫んでも、必ずそれさえも個人のこたえでなく、流の中で発言しているということである。だから、私は、自己って思い込みで、いつも全ての中に溶け込んでいる命でしかないというのが本当ではないのか?と信じかけている。
今日の貴方の発言や行動も、バックボーンがあるからで、それ自体が敵対を高める必要もなく、生まれた時点の貴方自身は、全てが受け入れてくれたから今命として存在し、貴方が発する言葉は全ての思想の中での貴方なのだってこと。
そして、生命とは、全ての経緯の中で生まれその切ない役割を果たすだけなのかもしれない。
そして、ここは、空想に近い願望なのかもしれないが、自己は死んだ後も全てとともに存在していると思っている。高らかに叫ぶ自己って本当は、思い込みなのかもしれない。自己とは、全てと分けることのできないもので、全ては貴方から見た他でしょうが、いやいや貴方自身も全てのはずなのだ。
そして、それに証明を加えるならば、貴方とは貴方の意識そのものの点がすべてで実態ではないのですか?ということ事が答えです。

3.3.2生命と存在というもの

以前存在論(存在論)をこの中で書き込んだ。
存在に対する私の疑問は、50才を過ぎた私に1つの回答として現れた。それを記述したのが私の存在論だ。
最近、NHKのコズミックフロントを見ていた。「ついに見た!?宇宙の始まり インフレーション」という番組だった。何かをきっかけにして宇宙は膨張しているか実証している科学の現場についての番組だった。
私は、存在のトータルが常に膨張するなんてないと思っている。番組の冒頭に、アインシュタイン博士が宇宙は常に一定と語っていたと紹介されていた。博士と私を同列にすることはおこがましいが、アインシュタイン博士の一定とは私の存在は一定ということとイコールと思える。博士は、理論物理学者だ。神の声(私にとっては存在の声)に耳を澄ますと、本当の理論が出てくるのでは?それが真理というのもではないのか。
宇宙の始まりのインフレーション理論は、博士の一般相対性理論に量子力学の公式を当てはめた事によって発見されている。だから、数式というものが、宇宙の始まりを明らかにしたに等しい。理論とは、そのように真実を明らかにする忠実な道具で、数式というものを編み出した人さえも驚愕する現実を明らか(仮説であっても)にしその正当性を見せる。
これって、一体なんなのだろうか?たかだか、生命である人が宇宙の事実を見つける道具を持っている。不思議ではないか、人が編み出した数式自体が本当の答えを我々に教えてくれる法則を持っている。まさに、神業に等しい。
地球上では、知的生命の一番上にいるのは人である。その人の知能とはなんなのだろうかと思う。
しかし、そうではない、存在の意思自体の実験かもしれないが、そのような人とは、必然的にここに存在するとしか答えはない。存在の意思が何を目指しているのか不明だが、存在さえ我々と同じ命をもつのであれば、滅びが起きないような作用が必ずありその中に人は組み込まれてまいると思うのが正しいと思う。
我々は、記憶を持つ。その記憶は明日をシミュレーションできる知能を発達させた。明日をみたら、生命は必ず滅びが訪れることを自覚させられる。そう、我々の見る風景にそういう答えを突きつけてくる。
私は、こんなことばっかり考えて、眠りについた。そして、朝目覚めたとき、何かが見えた。それは、今生の私は滅びるが、また、存在をこの目で見る事が訪れる予感だった。不思議な体験だった。寝ているときの真っ黒の無の意識のほうが本来ではなく、存在の中で必ずまた生命の役割を与えられ生まれると確信を持ったのだった。理屈でなく。その当たり前のその姿が私に訪れた。
夢物語だと思われるだろう。しかし、存在が一定という立場において、私の存在も存在の1つなのだから、あたりまえの結論であたりまえの感覚なのだ。
そして、一番言いたいのは、神や悪魔や天国を信じていた時代は、科学が発達した現代よりもとてつもなく長かった。それを信じて生きた先人は、命に謙虚であったし必ず信じた理由があるはずだ。稚拙なのは、本当は、現代人なのかも?と強烈にいいたい。
これが、科学(文明)という幻想に毒された人類に、私が主張したい本筋だ。

3.3.3【発見】人間が他の生命と異なる創造力に対しての理屈

私の存在に対する結論は、すべてのトータルは一定ということである(存在論)。
ただ、人は神に近いものをもっている。
それは、創造の力なのである。神のみが持つ創造というのを違った意味で持っているのである。
以前にも記述したが、テクノロジーや科学や生産とは、自然の中にあるものを我々のために変化および加工して用いているのであって、新たに何かが出現したわけではない。
創造とはどのような定義なのだろうか?

―引用―
デジタル大辞泉の解説
そう‐ぞう〔サウザウ〕【創造】
[名](スル)
1 新しいものを初めてつくり出すこと。「文化を―する」「―的な仕事」「―力」
2 神が宇宙・万物をつくること。「天地―」

私のいう創造とは上記の2に等しい、1は加工ということになる。
1は、現実および物質的アプローチである。文化は、確かに今から説明する創造に近いかもしれない。
私の言い分は、人は理論を創造できるということである。ただ、大きな疑問は、理論は創造したのでなく発見したのかもと。なぜなら、屁理屈であれば、自然がその理論がおかしいと教えてくれるのだから。それは、創ったのでなく分かったということになるというのが正しい本来なのだ。
ただ、発見であっても何かの設計図や数式、または、哲学などは、人間の知恵を現実に吐き出したという意味で、何かを現実の中に出現させたと見れば、それは創造といえる。
ここで、自分が反論をとなえた。ならば、存在は一定でなく増加ではないか?
ないものは出現しない。頭に浮かんだ理論や哲学は、まず頭にあってそれを現実世界に転換(変化)させたと考えれば増えたのでなく、思考というものを現実社会に適応できるように加工して表現したといえる。理論や思想は想像で生まれたのでなく、存在の節理の中でその形をかたどりそれが頭に浮かぶというのが本来の姿なのだ。
この事を私は、創造とよんだのだ。心や意識の中にあるものを現実界にOutputした現象を。
創造という言葉が適切か不明だが、言葉に縛られず説明するならそういう事になる。
我々人は、思考を現実界にOutputする事のできる生き物で、心にあるものを形にできるというのは、実は頭の中にあるものは物質のごとく存在の中の1つであり、心や意識とは存在の中に溶け込んでいて空虚なものでなくそれは形をもつものだと思う。
私の存在論の理論のとおり、実際に我々の意識は地球上に大きな影響を与え、存在の一部として存在しているのだ。だから、存在とは物理的なものだけでなく、意識や心という反応さえその一部とみなすことが正しい解答となるのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です