3.実験結果

3.1基本

3.1.1 正しいとは、何か

正しさとは、心を持つからあると以前説いた(悪の起源)。
そして、心の根源は、弱い事を自覚しているからとも語った。
正しいとは、立場によって異なる、敵と同じ正しさで喧嘩しないものだ。
自分の立場を守る大義が正義となる。
科学は自然法則を発見し発達してきた。法則が宇宙にないとするなら、自然というものに人は対峙できるはずもない。
だから、理論的に自然現象を利用して科学は進んできた。
例えば火薬を作ろうとしても、それぞれの物質が固有であり分類出来ない無秩序で存在していたとするなら、火薬は今でもこの世にないのだ。
だから、正というものと理論は必ず覆せない事実によって成り立っているといえる。
私は、命を持つものだけが正というものを信じると思っていた。しかし、物質だって、分類できる姿や法則や規則性によって存在する。
必ず存在と向き合うには、正から逸脱できないのが結論である。
もっと明確に正とは何かに応えるなら、人間社会の正義の根底は、上記のような存在としての正に沿ってはいるが、理論や存在の正には程遠くわがままなものなであり、その人間のわがままな正義が通用するのは、人間の社会の中だけだ。それは、社会で立場を守る手段と言うだけで、乱暴に言えば存在や理論と異なる社会的な正、それが正でなく正義ということになる。
そして、もっと踏み込むなら各論での正義論争でなく、人間が歩んできた道筋は、社会的力を超えた正に沿って今生き残っていると思われる。だから、その流れに逆らったら、多分、滅びるか何かに支配されることとなるでしょう。だって、それぞれの心が無秩序であるなら、上記の火薬が出来なかったはずだという物質としての分類不能論のように、法則がないという存在となり存在から弾き飛ばされてしまうはずなのだ。
そして、経済学や政治学は本当の正に応える事が出来ない理由がそこで、人間社会の理論探求が文科系で、医学を含め存在と言うものの正と向き合う学問が理系的学問である。理系のそこには、一切の屁理屈は通用しない。再現性のない理論は、ただ排除されるだけなのだ。
結局、文系と異なり自分都合の理論は通用しない。真理のみが結果を示すもので理論とはそういう崇高なものと言える。貴方の気持ちでは、覆す事はできない。

3.1.2愛について

私の思う愛の定義は、以前の記事にまとめている(愛の定義)。
要約すると、愛とは神や仏の慈悲のようなものと述べている。
子供や友そして、他の生き物への愛情が分かりやすいと思う。
では、人間社会で愛を見たとき、恋人に向ける愛は独占欲に近く本物か自分で見極める事が必要となる。ただ、若い人々が恋をするのは、愛情を深め愛の本質を知ることにつながるという意味は大きい。だから、大いに恋をしてほしい。人を好きになりお互いを認め合えば愛につながるのは間違いない。
恋とは、愛を知るキッカケとしても、自分を認めてもらう努力へ向かわせてくれるキッカケとしても、大切な心であることは間違いない。
このような世界で愛に忠実である事は、口で言うより大変だ。
結婚して夫婦になれば、当たり前に性を制限される。不倫や浮気を認めてFreeの立場を取ることを社会常識は許可していないから。他にも、誰かを憎む心は愛側では認められない。
愛を信じているけど、イジメに加担していることは当たり前のように見受けられる。都合の良い愛情を愛と呼べない。神や仏の慈悲に照らせば歴然としている。
愛を信じたいと皆さん思うのでは? 私は、そう思うので、注意して自身の行動や心を検証し観察している。しかし、美しい女性に会うと惹かれ、正しいを叫ぶとき固定的個人や団体でなくてもどこか敵を意識した憎しみの心が根底に見える。
こんな事では、全く愛に近づいていない。その先の善なんて、彼方にさえその姿を現してくれない。これは、今のところの私の自己観察の結果だ。
そして、社会を観察すると、愛という決着で簡単に終わらせている事が往々にしてある。
何かが起こったりすすめる事柄がある場合、本当はきちんと理論的に処理したり進める事が必要なのに、適当にして最後は愛で締め括っていることがよくある。愛というスローガンを叫べば愛の代弁者であるかのごとく。
本当は、愛を唱えれば愛が救ってくれるというのが、愛の姿としては正しい。しかし、それだけでは、人類の問題解決に至っていない。それが現状。本当の愛をみたいなら、全員がかりで悩み、脱落者を作らないように少しずつ前に進める覚悟がなければその姿は現れない。それは、ハミ出しを許さないって感じに収めるのではなく、寛容にという容器に入れることがルールなのだ。お互いの正義で対峙した相手を許しあうように。
そして、愛に憎しみは似合わない。

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