3.2民主主義

3.2.1私がこだわった民主主義が見せたもの

今までここに何度も触れてきた民主主義は、以前にも記述したが、キリスト教の教えが基本にあると学者の方が述べられていた。人は神の下に平等であると言うことが起源であると。
日本でも福沢諭吉さんの言葉に「天は人の上に人をつくらず」がある。それは、キリスト教の布教があったからなのかもしれない(ご本人がキリシタンかは調べていません)。
だからか、キリスト教圏のフランス革命をきっかけとして、植民地体制だった時代に全世界に民主化と独立運動が拡がり、アメリカでは独立戦争が起こっている。これは、何かの連動によるものか、それともたまたまなのかわからないが、NHKの番組では関係があるように解説してあった。偶然であろうがそうでなかろうが、潮流としてそうであった事実は史実にのこっている。
そんな流れから現在の平成の民主主義に流れてきている。
昭和37年に生まれた私でさえ、この国がどんどん民主化されていくことを感じてきた。
国鉄民営化、年功序列の解体、政権交代、アニメの世界的超最先端的文化発信など。
世界的には、ベルリンの壁の崩壊を目の当たりにし、冷戦構造の終焉が起こってその前後の違いを体験として感じている。
西側と東側に分かれた世界2局の競争によって、西側の自由資本主義または自由民主主義側が優勢となり、ゴルバチョフ書記長のペレストロイカをきっかけに冷戦構造は終焉した。
その理由はいろいろあるだろうが、より民主的組織の方が、経済や科学において優勢になったという結果だと思う。
なぜ優勢になったか?持論を言えば、より民主的体制の方が、国民の総力を高めることができたということだと思う。一部のエリートのみが未来を考えるというより、民主的システムによって考える人を作った方が、多くの知恵を産んだのだろうし、多くの市民をみんなの未来の協力者として参加させた方が優勢だったからだ。
ただ、その過程において民主化による不安定をまねき、総力が低下した時期が長かったのも事実だろう。
結局、そのような過程を乗り越えた民主化体制は、多くの市民を国家や組織に大いに参加させてきたのだ。そのこと自体が、人類の最先端実験であり、今もその過程で、答えを模索しているようにみえる。
確かに現状の日本をみると、本当に公平な民主主義か疑いが起こるのは無理もない。しかし、それは、今の平成の日本では体制だけの問題ではない。私は、公平でない民主主義とは、生き物としての不平等であって、それぞれの個性といえば綺麗事になるが、この世に生まれるにはそのようなものを抱えて誕生するのはしょうがないように思う。女性と男性との違いだって、生物的役割としてどうにもならないのだから。
しかし、それを多くの社会の知恵によって、できるだけ公平な機会をみんなで作ることを目ざすというのが、社会の正義だと信じる。
そして更に、今以上の公平が欲しければ、仏教の中にあるような、心の中にそれを求めるしかない。そうでなければ、生命というか我の存在というもの自体の不公平を乗り越えられない。
私は、この事に加え、権力者の一極のみが社会の采配側を牛耳ってしまったら、その社会の不安要因を高め、その不安要因を圧力によって片付けられたら、最後には私の大嫌いな革命というものが起こると思う。このような、緊張を起こさないように、民主主義はあるのだ。リーダーもその座を降りやすく、リーダーになりたい優秀な若者にもチャンスがあるということ、そして、誰に采配してもらうかは、その社会のバランスによって定まる。このような、民主主義体制は結局、だれも頑なでなくていい、市民もリーダーも不幸に追いやらないための大人にしかできないシステムなのだ。

大切なことです。誤解してほしくないので記述いたします。
一極の采配者に、陛下は関係がありません。陛下は、この国の国民全員を見守ってくださっています。ここだけは、間違ってはならない。そして、なんでなんだと言うなら、応えます。日本は歴史によってそう定まったのです。今生のだれかが仕組んだなんてことは、100%ないのです。
天皇陛下は、我々国民全員のために、大きな役割を静かに遂行されておられるのです。

私の記述に陛下のおなまえを出すなんて、申し訳ないと思っています。しかし、大きな誤解を生むのを避けるためにも記述せざるを得ませんでした。理屈や合理と全く異なる秩序をこの国の進んだ歴史が定め、それは、日本の現代人だけでなく、過去の市民も含めた民主的結論だと私は信じています。
誤解をまねかぬようにこのことを記述するのは、避けてはならないと判断しました。

3.2.2幸福になるための課題はボトムアップ

私の主張は、民主主義がみんなを幸福にする現状最善であるということだ。
サッチャー首相の言葉だったろうか。
民主主義は、幸福の答えを出すシステムといいがたく多く問題を含む。しかし、人類において現状で最も正しいシステム。
という趣旨だった。
多くの問題とは?それは、庶民次第で、明日が決まるということだと理解している。
それぞれの、国や組織のトップは多くの情報を得ている。その中で、国や組織にとって有効という道を決める。その答えは、市民にとって不都合の場合も多々ある。当たり前で、市民は生活がかかっていてあおりを大きく受けるから。
しかし、全体を考えた場合、トップだって人情を持っており、だれも追い込まずに答えを導きたいはずなのだ。その意識をもったものだけが、トップだと私は信じている。
だけど、民主主義はそのトップを誰にするか決めるシステム。会社のトップだって、そのトップがふさわしくなくいい加減な経営をしたなら、市民は拒絶しだれも商品を購入しない。
ならば、結論は明白だ。
公平で正義をわかる市民をどれだけ多く作れるかが最大のテーマということになる。トップを選ぶより、多くの時間をついやして、家族、学校、地域そして企業が人を育てなければならない。
そのためには、例えば、いじめの起こっている学校とは、社会の縮図と理解し、大人は冷静に明日を考えて前に進んでいくことでいじめをなくしていく。誰かをつるし上げて納得、それで決着。そんなもんじゃ本当の解決なんてありゃしない。
根底的に社会の正義を実現するには、公平な社会の実現であるけれど、公平を言葉だけで語っても公平は訪れない。だから私は、やる気のある者に社会が機会をどれだけ提供できるかがより具体的なテーマと考える。その事が正義であることを共有し、すべての市民が成長していくという方向が現実的なのだ。そして、それは必ず社会をボトムアップさせる。誰でもフィフティーフィフティーであることを、できるだけ現実の中で自主的な人というあり方を目的にしたい。立場が違ってもやる気があるものを大切にしたい。そんな、正義を目指した先に、やっと公平が訪れると考えている。

3.2.3全体が幸福になるために必要な目標

人とは、他の生き物と異なる特性をもつ。それは、知能の発達だろう。
人が、力だけの生物に勝ったのは知能のおかげである。
そして、他の生き物と異なる苦悩をもつ。知能が力とどのようにバランスを保つかが人間そのものといえる。
人は固体としては生物的力をもち、それを知能によってまとめあげ全体を巻き込む社会(またはシステム)として、地球上の生命としての優位を保っている。
その歴史の蓄積および経緯によって今の立場を現代人は生きているのである。ちょっと前の先輩と異なる正義を現代人が持っているのは、歴史を記憶している生命であるからで、社会の発展のバックボーンと我々人の記憶力とは切っても切れない歴史(記憶)によって今の力(科学や秩序)の中で生きているのである。
この事実は、他の生き物と異なる知能(思考力と記憶力)がつきつける事実である。
他の生物は、1000年前と同じ生き方をし、我々人間は1000年前とまったく異なる現代社会の中で生きているのである。

次にその事を分かりやすくポートフォリオにまとめた。

s1-fig3-1

単なる生物であった原始が、知能もつがゆえに抱え込んだポートフォリオなのだ。
我々人は他の生命と異なり、歴史の中で生きる生命なのだ。その葛藤は、史実に明らかにされている。現代人の力や知性は、そのとき限りの命ではなく、正と対峙した記憶によってその力を発揮していると言える。して、ポートフォリオを時間軸にあてはめてみると、我々人の歴史とは何と葛藤したかが明らかになる。我々の歴史とは、次のグラフそのものだ。

s1-fig3-2

我々人が知能を力の道具として使っただけの生き物であれば、今、民主主義はない。力だけではない、正義の記憶が民主主義を実現させたといえる。それは、他の動物と異なり、力だけではない秩序(正義)が社会を構成しそのルールがあるから、他の生物より豊かであり、それを高めなければ自然や驚異と向き合えないからである。
知能と力どちらも人にとっては大きな軸だが、そのバランスの中で我々は昨日を作り明日を作る。

さて、私の言いたいことはここから
我々人は、地球を爆発させるだけの力を持つにいたっている。文明(科学)は相当の力をもっている。その力を有効に発揮させたら、全世界の人々に公平な機会を与える事のできるほどだと私は考えている。
しかし、現実はそんな事は夢物語だと私を笑っている。そうだろうか?それだけの力(文明)を我々は手にいれているのに、なんでそうならないのか?
私は、文化が文明に追いついていないからだと思う。人としての公平な正義は、文化が作ってきた。力をどのように使うかのコントロールは文化が決めてきた。そういう意味で、先人は文化の発展のない国は滅びると表現した。
我々現代人は、急激な文明の発達による力によってなんでもかなうような幻想をいだいていないか?
いいが、力のみを信じたらそれでかまわないが、そんな力だけの歴史を人類は拒絶してきた。そうでなければ、民主主義なんて今ないのだ。
一時的な力は、突破として人類を発展させた。私は力を否定しない。だから、私が語りたいのは、この地球を爆発させることさえできる力を文化力によって、地球上の全ての人間が幸福になるための力に向けてほしいということ。全員が幸福になりたければ、個々も切実に全体の幸福と自身の幸福に向き合う事が必要になり、厳しい葛藤が発生することは予想される。
だが、その意識をどれだけの人が持ち目指すかによって、人の未来は定まり、そのような、文化を開拓しなければならないというのが私の結論なのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です