1.漠然と思っていた目的の発見

私は、ブログに記事を書き込み社会に参加しながら、何を目的にしているのか近年やっとわかった。
それは、「全体の幸福と個人の幸福の一致」だったのである。
この目的は、漠然と目指していたしそうでなければ前に進めなかったのも事実である。
現実から見たら夢物語に聞こえてもしょうがないのかもしれない。
しかし、人は深層心理の奥底にこの目的というか、正しさを持ち合わせているように思いたい。

1.1 若き頃の反省

どうして、この目的を持つにいたったか、そして目的を信じなければならなかったか、それは若いころの反省なのである。
私が若いころ、今より一人よがりの欲がつよかった。簡単に言えば、成功者になりたかった。
そのため、就職してから成功という目的のために仕事をしていた。完全にそうではなかったけれど、成功したいという目標は、大きな割合で私の中にあった。
そのような私は、職場の同僚たちと軋轢を起こしてばかりだった。多少仕事ができた私はそれを使って、多くの同僚を傷つけた。だからだんだん孤立していった。そして、1人になればなるほど頑なにその方向へ進んでいった。
こういう状況が招いたのだろう、トラブルが頻発するようになり、その火消しに協力してくれるような理解者など1人も居ず、自分自身でなんとかするしかなかった。結局、多くのストレスに見舞われ、私は退職に追い込まれた。
当然の結果だと思う。ここでリーダー論をよく記述していて、その中で「リーダーとはみんなの幸福を願う者でなければならない」という主張は、この頃の反省が言わせている。
退職しても、私の悩みはおさまらなかった。自己嫌悪のループから抜け出せないのだった。その理由は、多くの同僚や友人を傷つけた自分に救われる道がみつからなかったからだった。当然の報いを受けていた。
このどうしよもない私が一歩前に進むきっかけは、上記に記述した「全体の幸福と個人の幸福の一致」だった。どうしてそうなったかだが、成功欲にかられていた自分の心の奥底を思い出し、何年も見続けていた日々の中で、1つだけ光を見つける事ができたからである。それは、私は成功者になりたかったけれど、同僚や友人の幸福の中でそれを達成したかったと言うことだった。確かに、その時代の発言や行動は、その時の私を知る人にはエッ?と思われてもしょうがない。稚拙だったので、上手く取り組めなかったと言うことで許してもらうしかない。
そして、その心の奥の奥にあった自分のかすかな正を信じるしか明日へ向かう道はないのだった。
なんで、そんな正が私の中にあったのだろう?
幼いころからその時まで、グループや組織に所属した経験があり、あまり訪れることはなかったのだけど、みんなが協力して目的に達したことが幾つかあったからだった。それは、全員が幸福を実感した。当然、私もそうであった。みんなの幸福の一員として私がそのグループや組織にいた事が、大きな幸福であることをその経験が教えてくれていた。だから、私はそれを信じられるのだった。
そして、近年になってそれを言葉にする事ができるようにやっとなった。
その答えが、「全体の幸福と個人の幸福の一致」というものだった。

1.2 私なりに向き合ってみて

ブログをはじめたころくらいからだろう。漠然としていた光(まだ、「全体の幸福と個人の幸福の一致」という言葉に置き換わっていなかった)の方向に進み出し、日々の自分の心を観察していた。欲や怒り、優しさや愛情、正義感や絶望感など。その私の心理をながめる実験によって得た答えをブログに記述したりした。
そして、そんな私を見つめる実験は、今も続いている。もしかしたら、もっと強烈に実感し進めている。
それにより得た結果をここにまとめる。
それで、一旦区切りをつけ、次の実験に向かいたい。

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