ここは私の実験場なのです。
私自身を実験物として取り扱い、人間および生命としての真実を探してきたのです。
生に向き合い、
人間の本質とはなにか?
社会とは何か?
そして、存在に意味はあるのか?
私は生命であり人である。しかし、それより大きな存在の意味について考えている。
すごいことだ、生命の枠組みを越えて存在を考えるなんて、おかしなことでもある。
たかが人である私がそんなテーマを持っている。不思議なことだ。誰かに強要されずに。
私がすごいわけでなく、たかだか生命である私がビックバーンさえその一部である宇宙を越えた存在というものに答えを見つけようという馬鹿げたことを感じて生きている。こんな感覚の生き物は他にいるのだろうか?と思うほどに。
そしてそろそろ一つの実験結果を発表する時期だと感じる。
なぜか?それは、社会に対する正義の意味が分からなくなった私の今というのは、一つの取り組みが終わり、次に向かうべきという事を示唆しているだからだろうとおもうからだ。
半年近く、人類に対しての失望ばかりを述べて来た。私自身がドンキホーテだと語り。
しかし、それはそれまでのテーマに答えを定めようとしたからだった。私はどこか正義や善にこだわったから失望を招いたのだ。
人間社会は生き残るために社会を必要とし、そのまとまりのルールとして正を定めたのだ。その結果、現代社会はルールを根底とした人類社会を構築し今の反映を享受しているのだ。その過程において宗教を必要とし戦争をも肯定してきた。
しかし、この超先進国である日本の人々でさえ、大概の人々が幸福感を持たない状況を抱えている。それは、社会の中の人であるから富の分配にあずかれるという事実が、本能の自由との葛藤をまねくからなのだ。正しいという事で成り立っている人類社会がどこか不自由を感じるのは、根源的本能に対して整合できていないからだと私は思う。
それは、私自身を実験材料にして感じた答えなのです。
正しいを全うしたいけれど、本能の前にはひれ伏すしかない自身を観察した答えです。私はそれは”当たり前”の結果だとおもいます。どんなに美しい言葉で理論を語られ合意してたとしても、本能という大きな壁を越えられずひれ伏すしかないないという事を、謙虚に感じています。
だからこそ、今まで信じたかった、善に近づく事さえできておりません。
私は、その越えられなかった私の心理と社会活動の実験結果をここに披露し、次に向かうテーマを定めようと思います。
半年以上嘆いていた自身に決別し、本質的な生命という運命に逆らえない私を自覚し次のテーマに向き合いたいと思います。
まだまとまっておりませんが、海外ドラマでいうシーズン2に向かうべく今までの実験結果を近々ここに掲載しいたします。いつも通りまとりのない散文になるやもしれませんが、その事を宣言し次に向かうけじめとしたいと思います。