【社会システム5】正義と野蛮
野蛮な者と戦と戦えば正しい者であっても野蛮になってしまう。
私の好きな学者が教えてくれた(本より)ことです。
たとえば、戦った時に正義のためとは言え野蛮人とやりあえば最後には命の取り合いになるのです。ですから正しい人も野蛮人になってしまうのです。こちらだけ正しくては、結局こっちが破滅し正しいなんて無意味になってしまうからです(誰も正しいことを継承できないので)。
最近TVで『DEATH NOTE』を見ていてこのようなテーマがあり関心しました。
ルールの中で戦うものとルール外で戦う者、前者は法であり後者は罪人であると解釈します。こう解釈し視点を人類社会より1つ上に据えて考えてみたとすると、人類がルールと思っていることが実は単なる我々のエゴ(勝手な取り決め)と見ることもでき罪人と同じなのかもしれません。罪人には罪を犯す理由があって、それを社会が罪と判断しているだけなのかもしれません。このように考えれば人が人を裁く限界を感じます。「正しいとかあんたらが勝手に作っただけだろう」というように罪人は主張することはできるわけです。
現社会において人は、一つ上の視点でもないし、一つ上になったつもりであっても結局は人類であって、そんな正しさなんて存在しないことは当然ですが、一つ上の視点でシミュレーションしてみることは法の進化を検討すること言えます(かなり厳しい実験ですが)。
現社会へのルールの適用として法があるのですが、逆説的に言えば1つ上の視点のような正しさが正当と人類すべてが思うならば法はいらないのです。法があるということは結局そんなレベルということの証明です。犯罪を裁く側もその分野蛮なのです。そして、現実に生きる我々は大いに野蛮な部分を含み、絶対的に正しくないから、法(ルール)に背かないように生きなければなりません。そうしておけば、社会の中で生きることを許可されるわけです。
で、このようなことを考えたときいつも思うのは、憎しみや怒りを憎むほど、私は立派ではないと思い。不甲斐無い自分を嘆くのです。そして出来るだけそのような感情で人を裁くことのない世の中に近づいてほしいと願います。
DEATH NOTEにみる現代の課題:法は完全ではないので進化しています。1つ上の視点に近づこうと(バージョンアップしようと)人類は悩みつづけていると思います。そのテーマが世界的な死刑の方向性で、原作(マンガ?)のレベルの高さに感心させられます(話題の時期をつかんでることも含め)。
2008.02.11 sorry (2012.2.3 改訂)