【社会システム1】共有と悲劇



だいぶ前のことになりますが、「バカの壁」という本がベストセラーになた時に読んでみました。その中で特に印象に残る(同感した)言葉があります。正確な言葉は忘れましたが、意味としては「人間は共通認識を得られると幸せを感じる」みたいな意味です。

ようするに、同じ考えや感情を認識したときに幸せであるということです。
この言葉は人間世界そのももを言い当てていると思うのです。
メディア・学問・スポーツ・芸術...等、人間社会においての根底であるようです。
学問は理論においての発見や発明を共通認識するものであるし、映画などのメディアにおいても人々の共感を得る。または、新しい感動なりを提供して共感させるという事に基本があります。
私自身、このブログで発言するのも共有するためという部分を含みます。

しかし、この共有は確かに人を幸せな気持ちにさせるものでありますが、そればかりを求めてはカッコ悪いというのも事実です。ただ有名になりたい、名を広めたいという目的で、大衆に気に入ってもらう発言や行いをするのであれば底がしれるというもので、それを大衆迎合と言います。それは、往々にして嘘で塗り固めたものによって受け入れてもらうことばかりのように見え、品位を疑います。

そこで、なんでそれが悲劇なのか?ですが、それは、民主主義の限界を示しているからです。人類(先進国)の民主主義は、多くの歴史の中で市民が勝ち取ったものです。今は当たり前の権利を得るのに多くの戦いがあって現在にいたります。しかし、この民主主義が国または世界の方向性をあやふやなものにしています(注意:独裁や軍国主義に戻れというものではありません。)。
世界的な環境問題や貧困に対して、経済が失速しても大鉈をふるって解決するという動きにはなっていないし、政治家やメディアは、大衆に分かりやすい政策や報道でしかこの国を語りません。これが民主主義の限界です。一人一人の幸せのためにある民主主義が、実は、全体を不幸にするという現象がここ近年大きくなっているように感じます。その様なあり様が、子供たちに影響を与え、いじめ問題が発生する1つの理由になっているように思いますし、大きな全体としてのマジョリティがマイノリティを排除する現象を写しているように感じるのは私の勘違いでしょうか?

共通の価値観が大手を振って個々や全体を悲劇においやる力となることが、構造的にありマスマス限界にきていると思われます。

「バカ! そんなの、社会を形成したときから変わらないのさ」とも言われそうですが、そこを英知によって民主主義をさらに進化させるべきと思います。
その設計図は私にはありませんが、20世紀のイデオロギーによる悲劇を知っている私としては、社会システムとして、主義主張でない方法によって解決すべきと考えます。そして、それはテクノロジーや科学による豊かさへの模索の中から生まれるように信じています。その流れのkeyは、人工的なものを故意に悪用しない人類の課題(バージョンアップ)と考えています。。。

2006.10.29 sorry (2012.1.25 改訂)