【政治4】正義と国家と善




善と正義は異なる。

善は、神や仏の領域となる。

しかし、我々は生きている。

生きるものにとって、せいぜい出来ることは正義なのだ。

善を追求したとするならば、人は食してはならないという事になる。

しかし、人は生きなければならない。それは、生まれたからである。

人として生れた我々は、食さなければ生きれない。そのためには、殺生が必要になる。

人は、石を食べても生きられない。空気と水だけでは生きていけない。

だから、他の生命をいただいて生きるしかない。それが、我々の正義なのだ。

だが、善を求めれば、他の生命を殺めてまで生きる事は間違いとなる。

我々は、人という括りの中での正しさを生きるしかない。

それは、我々を人という括りに先人が定めたからだ。

間違っていない。

せめて、生命という括りが無理なら、人いう分類に忠実でありたい。


次に、人である我々は国家という括りの中で暮らしているので、他国が侵略してきたら、戦う。

それは、国家という括りが人の次にあるからだ。

国家という枠組みは、人の次にある。それは、その国の中で育ちながら学ぶ。

敵対する国家と自分の国の境目は、生れたところのアイデンティティーに由来する。

敵国でもいい、我が国でもいい。国家としての本物の正義は大いに大切と思う。


しかし、国家としての正義とは何か?

軍がその国にあれば、その国の為に命を落としてまで自分の国を守ろうと生きる。

それは、国家という枠組みに守られている我々全てを守るために他ならない。

全体の為にお前が命を賭けるのは、誰にも命令されるべきではない。

全員がこの国を命を賭けてまで守りたいと思いたい国であってほしい。

それが、正しい国家像なのだ。

嘆いているのでは無い。

私は、その国の国民の生命を守る為に、自発的に命をかけてもいいという国であってほしい。

自分の子供の危機と同じように、命がげて助けたいと思うような国家であってほしい。

正しい国家像とは、人は不完全な生き物であるので、リーダーも市民も苦悩しながら前に進んでいる、そんな姿だと思う。

私が、どこかアメリカという国を尊敬しているのは、世界のリーダーとして命がけで苦悩しいて、

リアリティーと正義を信じるバクボーンを持っている国のように感じるからだ。

我が国も、太陽に恥じない国であると信じたい


2011.7.11 sorry