【幸福論9】倫理〜限りなく意味を
このブログのテーマの題名であるニヒリズムへの否定について述べたい。
私の大学時代は倫理学を一般教養で専攻していた。
その授業を教えていた教授は「私は倫理学を教えているが、教えるだけであり私自身その実行はしていない」みたいに語ってあった。
若く何も知らない私は、正しいこと(規範)を教える人が実行をしないなんて、なんて無責任な人なのかと感じた。ただ述べるだけであり行動が伴わないなんてと。
今、おじさんという歳になって思うのは、本当に正直な方だと言うことである。
正しく生きることの本当の難しさを私は知らないだけだったのだ。謙虚な先生は実行はしていないと人間らしく正直に語ってあったのだ。現在のところ、人は完全ではないのだ。
人は完全に純粋に正しく生きることはできない。フーンならばニヒリズムではないか(ニヒリズム:どうせできないのだから開き直ろうぜと言うような解決)ともとれるが、私の立場(前向き馬鹿)としてはそれを受け入れていないのだ。
私の立場としては、完全な人にはなれないが、永遠に正しさに近づこうとすることが人の生きる目的と思うのである。たぶん、近づこうとしても人間である私はそれに近づこうとすればするほどその到達への乖離を認識してしまい、その乖離があるからこそ進歩を実感できるのである。科学であれ哲学であれ完結していないテーマがあるからこそ、それを求める意味があり、そのことが生きるということのような気がするのである。
思うのは、すべてを理解し完結してしまった世界は空気が固定化され退屈な世界と感じ、そこに何があるのかさえ想定できない。極楽浄土の世界に私がいたとするなら、どう生きるかなんて愚問なので何をしていいか分からない。
だから、未完成な世界や自分はそれをできるだけ完成させるように生き続けるから楽しいし、それが生きることの意味で、永遠に自分の”歩調”で完成に近似していこうとする取り組みが人であり人生と思うのです。
完全とは全て完結してしまうことで完了してしまいます。
参考的事象:歴史上、壮大な完成(たとえば革命)をした人は、その反動をうけているようです。完全的なものは、ある一方だけの過剰な正義となり、それによりすべてを幸せに導くことは不可能なので、一方的な完結に対する反作用が発生するように感じます。
私は革命を目的とするものを信用しません。
2008.2.1 sorry (2012.2.2 改訂)