【幸福論5】正しいを公正に自分のものとする為に



1.正しい事を自分のものとするために


若き私は、いろいろな出来事に疲弊していた。
そのせいか正しきことを模索しいろいろ考えこんでちょっとした哲学者状態だった。
そのうち昼食時間となり、寝不足の私は母の出す昼食を食べようとしていた。

目の前に、昨日の残りのハンバーグが出てきた。
私はその瞬間、人とはこんなもんだと感じた。

人は生を食うのだと。。。
(そうか、食するときに手を合わせるということは殺生によって生かされている事に対して祈るということだったのか!)

いくら正しくあろうとしても何かを食して生きていて、私が正しき事を編み出してもウソつきでしかないのだと感じたのであった。

生きることは罪ぶかいことなのかも?と感じた初めての体験で、疲弊した自分に追い打ちがかかったのだった。

私には、2つの選択が残された。
 A:罪深いので、開き直って悪を受け入れる。
 B:罪深いが、そんなことを忘れて正しさを追求する。

私は、現実感を忘れたくなかったので、Aを選択することにした。
そう、私の中には善と悪が混在している。
ただ、悪を表面に出さないように人格を保っているにしか過ぎない。

こんな事を言うとニヒリズムを受け入れたのかと思われるかもしれないが、大バカ前向きの私は、開き直りによって自由な心をゲットし強く謙虚になることができたのであった。

この事で1つの発見があった。

  「弱い者ほど正しくあろうとする。または、正しくあろうとすると弱くなる。」

2.正しいに正々堂々と向き合う


正しいという皮をかぶった悪(悪意)が大手を振って歩いている、そんな状況を現代社会の中でも見かけます。

正しいということは、当然ながら悪いことではないのですが、正しいという旗の下、弱い人を悪人と勝手に言い放って攻撃するような状況に出会った事があるでしょう?
俺(私)たちは正しいのだから、悪人に制裁を加えるのは当然という理由により、その前提で勝手にあいつはこう考えているから悪人だと、事実でもないのに悪人にしてしまう。そんな正しさ、危険で害でしかないと思いませんか?
あなた自身、考え方の違いで人を悪者にしていませんか?勝手に悪人のレッテルを貼っていませんか?

昔の西部劇に出てくる、街住民の勝手な雰囲気で、悪人と思い込んで住民が縛り首にしてしまう(大体はその悪人とされたものが主人公で、何とか助かり、クライマックスは正義は勝つてな感じですが)。
そこまで実行的では無いにしても、同じような状況を見かけるのです。例えば、マスコミにそのような先導をよく見かけ(よく知られているケースとして松本サリン事件)、本当に劣悪と感じます。マスコミは、視聴者が喜びそうな悪人の仕立て上げ(雰囲気作り)をする傾向が顕著で、統一的悪人を作成して幻想正義を共感させるという姑息な作業が透けて見えます。ジャーナリズムが水戸黄門のようなフィクションとニュースというノンフィクションを、視聴者受けという目的によってごっちゃにしてないか?
そんなおかしさを感じませんか?

マスコミも自分自身も、事実だけを判定し、先走りのない公正さを忘れてはならないのです。自分が正しい側と思う前に、公正に自分自身の正しさを判定する必要があるはずです。
そして、雰囲気で悪を作る方法に気をつけるべきなのです。


あれ? よく見直すと、私も幻想正義の旗を振っているのかも?
とうとう批判自体が幻想的正義に見えてしまう状況になっている!(哀)。。。

2007.3.1 sorry (2012.1.28 改訂)