【哲学5】愛の定義



今年の重要なキーワード「愛」について定義を述べます。

広辞林によると
・可愛がり大事にすること
・キリスト教では、神がいつくしみ幸福をあたえること
・仏教では、仏の絶対平等な大慈悲

それと、一般人の恋人を慕うような意味の愛も記入してありました(現代の多分俗的な解釈に対する説明と思う)。

愛という言葉の定義を考えたとき、まず愛という言葉が存在することに驚きました。
キリスト教(西洋)仏教(東洋)でも、この曖昧で空気みたいで存在が目に見えない愛という観念を表現していることについて、人類の先人の感覚に驚かされてしまいます(感情を言葉として定義していること、またそのことを共有している事実)。

愛は、宗教的に幸せになってほしいという他者への感情と受け取れます。
ですから、正当な愛は、与えるものであってもらう(もらって当然)のものではないのです。
愛とは、他者へ愛を与えるもしくは他者に幸せになっていただきたいという自分の願望もしくは気持ちということです(宗教的な神や仏から人に与える感覚)。

ですから愛の深さは、もらって当然を測れば分かります。
見返りのない愛、無償の愛。これこそが、昔々に定義された真の愛であって、恋的に自分の感情を相手に理解してもらって感激するものはまがいものなのです。

現代において愛と勘違いしている顕著な例としてストーカーがあります。ストーカーには、「自分が愛しているのだから、自分が愛した分相手も同じように自分を愛するべきだ」という傲慢なものを感じます。
見返りを求めるようでは愛とは言えず、わがままとなるのです。愛を知っているものは、相手の幸せが目的ですので、自分が邪魔な存在と思えれば出しゃばらず慕うだけに徹するものです。
愛は自分が発する「あなたを幸せにしたい!」という思いですので、自分の幸福と別物なのです。ただ謙虚に人を愛したら、幸せになってもらいたい人が幸せであれば自分も幸福を感じますし、そんな自分の愛の深さに正しいさを感じると思います。
ですから、誰かの笑顔は、愛を信じる者にとって表面的かもしれませんがその笑顔の人に幸福をみて自分も幸福感を得るのです。よって本物の愛を探すなら笑顔でいることです。あなたの周りに愛を感じられる素直な人が集まってきますから。

ストーカーの記述のところに記入したように、「自分がそれだけ(愛)したのだからお前も俺にそうするのは当然だ」という感覚は、平等主義の極値という感じがして現代社会の稚拙さの象徴のような感じがします。とにかく、愛はただ与えるものであり獲得するものでは無いことを肝に命じるべきです。

そんなの「あんたの勝手な解釈さ」ともし言うのであれば、最初に戻って愛という言葉が定義された時代の人が、なぜその言葉を"共有"したかを考えていただきたい。
たとえば、その時代のストーカーを見て勝手なそれぞれの愛を人類は共有できなかったはずですし、身勝手な個々のわがままな理解不能な行為を愛という言葉でくくれなかったはずです。
また、愛とは異性に対してだけ向ける言葉ではなく、家族、友人、またはたまったくの他人やペットなどに対しても認められることから、自分の性的な欲望を満たす身勝手なものではないのです。

この定義に示すように愛は人類共通の感情であり、この愛という言葉を共有できる人類は、正しいし、未来もそのような方向に向かう事を期待したいです。


2008.1.28 sorry (2012.2.2 改訂)