【叙事0】自由の本当の意味を忘れた人々
なぜか、アメリカが気になる。
若い頃、自由の象徴の国だったから。
freedomで理性的で前向きで。。。カッコ良く。強く。そんなイメージでいた。
アメリカのRock'n Rollが好きだった。Rockは、若者が自由を叫ぶ道具だった。
1.1978くらいの背景
その時代の日本は、暴走族・ディスコ・引っかけ(ナンパ)・やっとサザンの登場という感じだった。
サザン・チャー・原田真二・ツイスト 彼らの前、Rockは、力強く在ったがTVに出演することはなかった。例外は、ダウンタウンブギウギバンドだけ(ズゥート前にはGSとかがあったけど)。どちらかと言うと、自由みたいなテーマに対するものは、我々より前にフォークの方にあった時代と感じる(1978年くらい)。
団塊の世代(私より10才くらい上)の暗いイメージに対して、我々世代は文化を使って自由を主張することがカッコ良かった(暴走族も文化と言うべきか微妙であるが。。。)。マンガもその1つと思う。
若者の鬱積として、大人社会なんてつまらないというメッセージだった。大人の個人個人はそんなにないが、まとまると崩しようのない牙城。その牙城と真正面から戦った全学連などの団塊の世代。私のイメージだが暗く映った。それよりも、スマートに音楽なんかでメッセージを出したいと思っていた。それは、歌詞ではなくギターのディストーションだけでよかった。暴走族の集合管のように。。。
・アメリカの苦悩
今、自由の国アメリカが苦しんでいる。たぶん、若い僕には見えていなかったがベトナム戦争くらいからそうだったと思う。国家の自由を守るために、人が命を落とす。政略のために命を落したのか?自由のために命を落したのか?エゴイストの食卓を守るためなのか?分からなくなっていった始まりのような時代だった。
スカッとするRockも、裏には影を引きずるところがあったから迫力があったのかもしれない。。。
2.自由への模索
1981年私は高校を卒業する。
何か自由では無いという思いが、国ということではなく自分の力不足ということにあったように思う。女の子にもてるとか、金持ちになるか、ケンカが強いとか、勉強が出来るとか、そんなものの中に自由はあった。
ヒーローになれないのは、結局自分の器量の無さと思って。Rockとかに傾斜していった。
だけど、自分の中からその先の構造的なものを投影したのかもしれない。
内面的にもがいて自由を手に入れたいと切望していたし、大人への反発として、努力しても大人たちの言いなりになる予感があり、気がついた時にショボクレタおじさんになるのはゴメンだった。そして、そんな事が、何か本当を見つけようとすることの中に自由があるのではないのかという予感を生んでいた。
そのな感じで生きて、35でドロップアウトした。それもこの流れの延長かもしれない。
今は、心に自由を作るすべを見つけて(このブログのテーマの価値的なものだが)少し楽になった。
チンケなことを言うようだが、自由を手に入れることは並大抵の事ではない。隣人と仲良くしながらかつ自由でいられるということは、心の自由がなければならない。
今の若者は当たり前(私の時代に比べれば)の自由を持っている。でも、この自由は先人(私の時代よりはるか前から)が努力した(息子たちを幸せにしたいということ)結果で、そのことを他人事みたいに思っているやからが多いと思う。私は、十分自由と思っている。ブログとかで世界に発信しているのだから(大袈裟だけど、世界から見ることは可能なので)。
若い時分に自由を求めた事は、人類としてのアイデンティティーに由来するのかもしれないと振り返って感じる。いつの時代も、若者が何かを変えてきたのだ。
3.現実逃避型自由というもの
こんな自由な人間集団の日本は未来的なのかもしれないと考える事がよくある。マンガを読んでも切実な自由というより思考的な無秩序といえるくらいの発想をよく見る(そんな空想も嫌いではないけれど)。しかし、そのテーマに愛や友情みたいな当たり前の正しさをもってこないとしまらない展開になっている。文学的な要素を持ちながら落としどころは当たり前の結果に。人々に受け入れられない結末はマンガにはそぐわない(売れない)ということだろう。当たり前の結果(愛・友情・勇気など)は読むものを追いこまない。娯楽としてのマンガだからだろう。しかし、空想は空想なのである。その空想を現実にするのは行動なのである。簡単に世界平和を語ることは出来るが、世界平和にすることは空想から飛び出して行動しなければならない。それは、昔のアメリカ映画でよくみたハッピーエンドではなく、現実に進むことなのではなかろうか?
4.自由は自身の手の中に
で、結局、何が言いたいか?
ごまかしからは、何も学べないということ。
政治に感じているかもしれないが、あなた自身も気持ちの良いとところだけで生きているでしょう?
アメリカには戦争がある。正直、日本人として地球で生きることに対してアメリカ人より誠実でないような感じがする。戦争をしろということではなく、それだけ真剣に国家運営をしているように映る。我々よりは。
大体、自由を簡単に享受できるなんて思っているのは感受性に乏しいと思う。
自由でいられないのは、自己の中にあるのでは? 現実の中で、自由でない、又は、思い通りでないって、実は当たり前なのです。先人は不条理という言葉で表現して問題提起した。で、今、先進国ではそんな哲学的な事は語らなくなってしまったように見える。愛は持っているが身を削ることまでしないというように。日本のマンガのように、当たり前のやさしい結果しか受け入れたくないというように真実から逃避していないか?
どちらにしても真実をあなたに向けてくるのが現実だから、現実を受け入れる準備をしておくべきと考える。寝ているだけでは、遠くの現実から逃げることはできない。必ず自分の前に現実が突きつけられる。
戦争・貧困的格差・地球温暖化・金・愛・正義・悪・人生・徒労・食・生、そんなものを正面から見つめながら、不条理を忘れて自由でいられるだろうか?自問自答である。
注意:2009.2において、46才でした。
2009.02.15 sorry(2012.2.8 投げやりで分かりにくい文章修正、および加筆)